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あなたの目に隣家の洗濯物が汚れて見える理由

ある土地に一組の夫婦が新しく引っ越してきた。ビジネスパーソンと主婦の新婚カップルだった。

ある日の早朝、この夫婦が二人で朝食を食べていて、妻がふと窓の外を見たとき、干している隣家の洗濯物が目に入ってきた。

干されているその洗濯物が薄汚れているのに気付いた妻は、夫に言った。

「あの奥さんは、洗濯の仕方も知らない人なのね。衣類は汚いままなのに。ちゃんと洗剤使ってるのかしら」

 

この妻は、あくる朝も、その次の朝も、隣の家の洗濯物を見て、毎日毎日、ブツブツと同じことを夫に言った。

「あの奥さん、家族にあんな汚いのを着せてるのかしら。信じられない」



数週間が経ったある朝、同じように窓の外をのぞいて隣家の洗濯物を見た妻は、その洗濯物が、すっきりと綺麗に美しくなっていることに気が付いた。

彼女は驚いて、夫に言った。

「あなた、見て。隣の奥さん、やっと洗濯の仕方を覚えたみたいよ。何があったのかしらね」

 

夫は微笑んで、こう返した。

「いや。僕が早く起きて、この部屋の窓をきれいにしたんだよ」



汚れているのは、隣家の洗濯物ではない。自分の窓だ。でも、汚れた自分の窓に気が付かない妻には、窓の向こうの洗濯物自体が汚れているようにしか見えなかった。

  

僕たちの周りの問題も、往々にして同じだ。たまに嬉々として他人の悪口を広める人たちに出会うけど、実際に汚れているのは、本当にその対象なのか、僕はいつも疑問に思う。汚れているのは、僕たちが下衆の勘繰りをして、悪質なゴシップや陰口の対象にするものではなく、他でもない自分自身の心のように思える。

汚れた心を通して外の現象を見ていれば、どんなものだって汚れて見える。その口から出てくる言葉は、悪質なゴシップ、陰口にまみれて汚れていく。汚れたレンズを通して解釈されるものは、そのまま汚れて出てきてしまう。

 

イギリスの詩人ジョージ・バーナード・ショウは言った。

「いつでも自分を磨いておけ。あなたは世界を見るための窓なのだ」


世界を見る窓は自分しかない。自分を磨いていなければ、曇った窓を通してしか、周りを見ることはできない。歪んだ思いに心が支配されていれば、歪んだ世界しか見えてこない。

一度しかない人生、僕は薄汚れた窓を通して周りを見ながら、人生の終わりを迎えたくない。そして、できれば他の人たちにも、そんな世界を見ながら、人生の幕を閉じてほしくないと思う。

ABOUT ME
Yasu
Good Friends Japan CEO. We aspire to offer opportunities of international education especially to unprivileged young adults. ヨーロッパと台湾で仕事をする北海道育ち。大学をアメリカ、大学院をカナダで修了。リベラルアーツ教育、宗教教育修士。
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