悲惨な状況に置かれたときに何をすべきかを教えてくれる音楽家

1992年、サラエヴォ包囲の真っ只中。

独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォに続いた砲撃の回数は、一日平均300回以上にもおよび、この間、負傷者は50,000人を超え、12,000人以上が亡くなった。東欧の歴史豊かなこの町には、多くの遺体で腐臭が漂い、首都の道という道が血で染まった、と言われている。

サラエヴォの音楽一家に育ったヴェドラン・スマイロヴィッチは、このときのサラエヴォを「地獄の首都」と呼んでいる。

スマイロビッチは、幼いころからチェロを習い、サラエヴォ・オペラ・シアターの主席チェリストにまでなった有名な演奏家だった。しかし、紛争が始まるとすぐに、このオペラ・シアターは破壊され、彼の愛する生まれ故郷サラエヴォは、一瞬にして「地獄の首都」へと変わっていった。

爆撃の雨と血まみれの死体が溢れ、地獄絵図のようなサラエヴォ。罪のない市民の血が流される街。愛する人たちを失い、泣き叫ぶ者に溢れる街。地獄絵図のような光景に、気が狂い始める者、悲惨な現実にただ絶望する者で、サラエヴォは溢れかえった。

 

市民が無残に殺されていた、そんなある日のこと。

スマイロビッチは、ただ絶望するしかなかった者たちと死体の数々に囲まれた広場に歩み出て、静かにチェロを取り出し、それを一心不乱に弾き始めた。一日に300発以上の爆弾の雨が降り注ぐサラエヴォで、オペラ・シアターで着ていた黒いスーツに白いネクタイを着込んで、たった一人、死と絶望の真ん中に座り、彼はチェロを引き続けた。



「誰にも弾くことのできない、奇跡の美しさだった」

耳にした者にそう言わしめたそのチェロの音は、すぐそばで亡くなった22人の命を記念して、22日間続いた。

その音は、先の望みもなく、振り絞る力の残っていなかった者たちの心に、いつまでも温かく、明るい希望の灯火となって響き続けたという。

 

「それがどれほど大きな助けになったか、あなたには想像できますか?」

サラエヴォ包囲を生き延びた人は言う。

あのときスマイロビッチのチェロの音を耳にした人にとっては、彼が奏でる音楽は、それほど大きな希望の響きであり、それほど大きな救いの響きだった。


豊かで平和な日常を送る僕たちも、レベルは違えども、悲惨で混沌とした環境に身を置かなければならないときがある。生きていると、理不尽なこと、冷酷な現実が襲いかかることも避けられない。

僕たちは、日常生活の中でも、何か悲惨なことが起きたとき、ただ泣き叫ぶことはできる。状況に文句や不満ばかりを言うこともできる。無気力にただ立ち尽くすことも、悲惨さを重ねる行為に加担することも簡単にできる。

でも僕は、どんな状況でもスマイロビッチのようでありたい。周りの環境や状況がたとえめちゃくちゃでも、自分がいるコミュニティーの中で、自分が持っているものを活かして、周りに明るい希望の音を響かせられる人でいたい。

いざというときに、チェロを取り出して美しい音楽を奏でることができるように、いつでも自分の能力を磨いていたい。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

CAPTCHA


ABOUTこの記事をかいた人

Good Friends Japan CEO. We aspire to offer opportunities of international education especially to unprivileged young adults. ヨーロッパと台湾で仕事をする北海道育ち。大学をアメリカ、大学院をカナダで修了。リベラルアーツ教育、宗教教育修士。@yasukuwahara