自殺を考えている人は、「死にたい=苦痛を止めたい」と言い換えをしてほしい。死は目的ではなく、手段にすぎない。

ときどき、「生きているのが嫌になった」、「人生の幕を閉じたいです」という人からメールをもらう。カナダで働いていた2007年くらいから、ちらほらと、そのようなメールを受け取るようになった。あの頃は、短い海外生活ブログを、ほぼ毎日更新していた。アクセス数も伸びたけど、バンクーバーからカナダの東部に引っ越すときに、ある理由で全てを閉じた。

トロントでまた新しくブログを始め、そこでも僕が書く内容に呼応して、精神的にギリギリの状態にいる人たちからのメールが来るようになった。バンクーバー時代のブログの読者が、検索を重ねて、僕を探し出してくれたケースもあった。

カナダでの僕の仕事の大部分が、苦しんでいる人たちに寄り添うこと、要望があれば問題の解決に乗り出すことだった。知らない人たちにも名前や顔が知られるようになり、ものすごい数の電話やメールを受け取り、僕の心身が限界にきたことも何度かある。全く異文化の中にいながら、あのような責任ある立場で、普通の仕事では考えられないプレッシャーを背負いながら生きる20代は、良くも悪くも、日本人ではそうはいないだろうと思う。

正直、今の仕事は、当時ほどの莫大なプレッシャーはない。自分の両親や祖父母のような年代の方々から「先生」と呼ばれ、知らない人たちにまで顔が知られる生き方は、もうしていない。ベンツで迎えが来て、カナダの高級マンションでワインを飲みながらミーティングという「これって教会がするようなことですか?」と思わず言ってしまうような生活もしていない。町を歩いていて、見覚えのない人から「あら桑原先生!」、「Hi. You are the one from Vancouver, right?」などと声をかけられて、焦ることもない。

「あんなに頑張ってたのにどうして?」、「なぜ日本に帰ったんですか?あなたのような人が組織を変えていくんですよ」、「もったいない。あなたがいないと何も変わらない。カナダに戻ったらどうですか?」などと言われても、これから再び同じことをすることはないだろう。結局、組織内の醜い争いや足の引っ張り合いに巻き込まれ、自分の使命の実行は妨げられるのが目に見えているからだ。

今までで最も素晴らしい人たちに出会った一方で、今までで最も卑劣で歪んだ人間関係の中で生きたのが、僕のバンクーバー時代。日本の教会を追い出された牧師夫妻、バンクーバーの教会を追い出された牧師夫妻、日本から来た詐欺師、不倫関係を迫って断ると嫌がらせをしてきた関西の中年女性、気に入らない人たちをことごとくウソで貶める不動産屋など、「実話を映画かドラマにしたら面白いんじゃないか」というレベルの人たちと関わった。当時は、「人間とはここまで高められるんだ。こんな人たちから学べるとは何て運がいいのか」という心が高揚したり、人の深い親切心に涙したりする経験を何度もする一方で、「人間性とは、ここまで腐ることができるのか」ということにも何度も直面した。

僕は嘘や虚飾や暴力が当たり前になっている人間関係の中で生きることは、もう二度としたくない。そんな環境に大切な人生の資源を割くより、他の方法で自分の使命を実行したほうがいい。基本的に僕は決めたことに柔軟なほうだと思うけど、こればかりは文字どおり死の一歩手前まで追い詰められて決めたことであり、これから心変わりすることはない。

ただ、立場は変わっても、当時から魂を削って実行していたことは、これからも続けたいと思っている。自分がしていたことは、ただの仕事ではなく、「人生」という大きな存在から自分に与えられた使命だと思っているからだ。

そのようなことの一つが、他人の心の歪みの犠牲になっている人たちと、少しだけ共に歩く時間を持つこと。僕も仕事をして生活していかなきゃいけないので、あまり多くの時間は避けないけど、深刻な内容のメールをもらったら、仕事に関係がなくても、確実に返すようにしている。個人情報がわかる部分は少し書き換えをしているけど、以下のメールも、そのような状況で書いたものの一つ。僕が送った2014年最後のメールだ。

メールをどうもありがとう。そして、応援メッセージもありがとね。今はすごく体力的にキツい時期だから、特に勇気づけられたよ。大変な中、僕のことまで気遣ってくれてありがとう。

本当に、本当に、色々なことがあったんだね。メールには書き切れないくらい、苦しいことが、叫びたいくらい辛いことが、山のようにあったんだろうね。そんな中で、僕のことを対話相手に選んでくれたこと、僕は嬉しく思う。



僕は、卑劣なことをする人たちの精神的幼稚さの犠牲になる人を、少しでも減らしたいと思ってる。卑劣なことをする人間がいれば、当然、その犠牲になる人もいる。カナダに住んでいた頃、一部の人たちが、人間として、とても看過できないことをするのを、僕は見てきた。犠牲者の一人は帰国を余儀なくされ、ある人は「二度とあんなところには行きたくない」と行って僕に涙を見せ、またある人は嘘の噂話をばらまかれて、人生の変更を余儀なくされた。

僕は、こういった犠牲者を減らしたい。少なくとも、僕の周りではなくしたい、と思ってる。だから、いじめや集団ハラスメントなどの被害に遭っている人には、なるべく時間を裂くようにしている。もともと、教会でそういう活動をしてたから、その流れで、帰国後も、ずっとこれだけは続けてるんだ。

今回のように、いつか誰かが僕の書いたものを読んで、何かを感じてくれるかもしれない。「やっぱ、死ぬのはやめとこう」と、思い直すかもしれない。以前に、一人の親切な人が僕が書いたものを読んで、「私もとにかく生きてみます」と言って、自殺を思いとどまってくれたことがあった。たった一人にでもそういった効果があるのなら、僕はこれからもここで発信していきたいと思ってる。誰のためでもなく、苦しんでいた昔の自分自身のために。



苦しんでいる人に「自殺は世間の迷惑」とまで言う人間がいるのは、悲しいことだと思う。迷惑がかかるなんて、そんなもの、百も承知だろうにね。そうやって言う人たちは、自殺する人を、どこまでのおバカさんだと思ってるんだろうな。迷惑も苦しみも分かった上で、それでも死を選ぶという選択なのに。

あなたの耐えられない苦痛に思いを馳せない人たちの言うことは、聞く必要がない。あなたの苦痛を見ようとしない人のことには、あなたの生死の問題に関しては、耳を傾ける必要はない。人は自分の思い込みで、事実そっちのけで言いたい放題のことを言う。何を言われても、他人の苦痛を無視する言動は、放っておけばいい。くだらない人間の言動に振り回されるのは、今すぐやめるんだ。

あなたは自分勝手ではない。断じて違う。多くの自殺は、実際は社会による殺人だ。状況が人を追い込んで、精神的な安静を奪う。周りの人間が作った状況が、あなたの心臓をえぐっていく。あなたは死ぬんじゃない。殺されようとしてるんだ。社会ではなく、「周りの一部による殺人」と言い換えてもいい。あなたの場合は、一部の人間が、あなたの心を殺そうとしてるだけだ。

あなたは今、他人に自分自身を殺させようとしている。あなたは彼らに自分を殺す許可を与えようとしている。自分の言動をコントロールする許可を、みすみすくだらない連中に与えようとしてる。自分で相手に自分をコントロールさせようとしてるんだよ。

僕はいつも同じことを言う。他人に大切な自分を絶対に殺させるな。これだけだ。心ない人間に、自分自身をコントロールさせるな。あなた自身が許可を与えなければ、自分を渦巻く環境は、あなたを殺すことができない。その環境は、あなた自身をコントロールすることなどできはしない。コントロールするのは、いつだって自分自身だ。外部のやつらじゃない。

絶対に、どんなことがあっても絶対に、その許可をやつらに与えるな。生きるんだ。今の時点で、どんなにつらくても、だ。



ぶっちゃけ、「自殺」という概念がいいのか悪いのか、僕には判断する力がない。この社会には、「悪いに決まってるだろ」という人が大半だと思うけど、突き詰めて考えていけば、それを「悪いこと」と定義できる人間なんて、歴代の哲学者、思想家の著書や論文を読んでみても、誰一人いない。一応、政治思想や倫理学を学んで、カナダの大学院で思想系の修士号をとったけど、今のところ、そんな断定ができる論文には、お目にかかったことがない。「個人的に悲しいこと」と定義できる人は、たくさんいるだろうけどね。

絶対的な答えがない以上、いくら僕が「人が自ら命を絶つのは絶対にダメだ」と言っても、聞き入れるのは難しいよね。だって、理由が不確かだから。僕にだって理由がわからない。

僕はいつも、自殺は言葉の概念ではなく、個別に焦点を当てて考えるべきだと思ってる。「人」が死んではいけない普遍的な理由なんてない。どこにもない。今まで、世界中でどれだけの哲学者、社会学者、宗教学者、教育者が論じてきて、誰も一つの絶対的な答えを出していない。今現在の段階で、誰も絶対的な答えをもってない。カント、ロールズ、サンデルといった、名だたる哲学者たちでもだ。

だけど、「自殺したい」と思う個々人「⚪️⚪️さん」は、確かに存在する。普遍的な「人間が死んではいけない理由」があるかどうかは別にして、「⚪️⚪️さんが死んではいけない理由」は、個々のケースを考えれば、あると思ってるよ。



今回、僕があなたのメールを読んで、思ったことがある。


あなたは、死んではいけない。なぜなら、究極的には死にたいわけじゃないからだ。理由を勘違いしたまま死んでいくのを、僕は黙って見ているわけにはいかない。

繰り返すよ。あなたは、死にたいわけじゃない。断じて違う。だから、その行為を取る意義を、僕が認めることはできない。



「はあ?」って思うかもしれない。

「『死にたい』って、はっきり言ってるじゃん!」って思うかもしれない。

それでも、僕ははっきりと言うだろう。「あなたは死にたいわけではない」と。

そして、繰り返し言うだろう。「あなたは、辛くて苦しいのを止めたいだけだ。それが目的であって、死ぬこと自体は手段にすぎない。目的を果たせれば、手段が死である必要などない」と。



あなたが望んでいるのは自殺そのものではない。
自殺を望んだ状態への手段として考えているだけだ。

「本気で死にたいって言っていない」ということではない。決してそうではない。あなたは悲痛なまでに本気だ。文章を読めば、強烈にそれが伝わってくる。

そうじゃなくて、死にたいというのは、僕には他の感情の言い換えに聞こえるということだ。「死にたい」という言葉を言わせている感情の正体は何なのか、そこを死ぬ前に僕と一緒に考えてほしいと思う。



まずは、自分に向けて使う表現を変えるんだ。

「死にたい」じゃない。「生きるのが辛くて耐えられない」と言うんだ。



死にたい?

何で?

辛いからだろ。

苦しいからだろ。

あいつらがひどいことをして心が耐えられないからだろ。


じゃあ、本当に望むのは「死にたい」というよりも、「辛くて苦しいのを止めたい」ということじゃないのか。目標はそっちだろ。死というのは、単にそれらを実現させる手段に過ぎないだけで。



何度でも決めつけるけど、ここだけは許してほしい。

あなたは死にたいわけじゃない。痛みや苦しみを止めたいんだ。目的はこっちだ。最終的に実現したいのは、死じゃなくて、こっちなんだよ。

「死にたい」というのは、多くの場合、「痛みや苦しみを止めたい」を言い換えたものだ。堪え難い精神的虐待から、抜け出したいんだ。悲惨な環境から抜け出したいんだよ。

死はその手段として、あなたの頭にちらつくだけなんだ。

この精神的虐待がなければ、あなたは自殺しなくてもいい。理不尽な苦しみの毎日さえ去れば、あなたは死ぬことを選択しない。そうだろ。理不尽な苦しみがなければ、素敵な人たちに囲まれて、望んだ生活ができていれば、わざわざ死を選ばないだろ。

だったら、突き詰めると、究極的な目的として、死を選びたいわけじゃないんだよ。痛みや苦しみを止めたいだけなんだ。今の状況を変えたいだけなんだ。その手段として、「死」が脳を襲うだけなんだ。この場合の「死」は、あくまで手段にすぎないんだよ。決して目的ではないんだよ。

じゃあ、目的を達成できれば、別に手段は変えたっていいだろ。理不尽な苦痛から離れられれば、別の手段をとったっていいだろ。死なんてのは、その手段の一つにすぎないだけで。



漠然とした考えで、「死にたい」って表現を使うな。自分でも概念を整理できてないだろ。メールを読む限り、あなたの場合、言葉の裏にあるのは「死にたい=生きるのが辛くて耐えられないから、ここから抜け出したい」だ。死そのものに憧れて自殺をしようとしてるわけじゃない。三島由紀夫が命を絶ったときとは違い、あなたにとって、死は目的ではなく、苦しさを止める手段に過ぎない。

だったら、まず、その辛さの原因を整理整頓していこう。そこが整理できれば、きっと自殺じゃなくて、「辛さを止めるために他の手段を取ればいい」って思えるようになるんじゃないかな。自殺はやっちまったら取り返しつかないから(念のため言っとくと、悪いことだとは一切思ってない)、俺は慎重になってほしいと考えてるよ。



本気で自殺をしようとしている人間の脳に、死という言葉は強すぎる。一線を越えようとしている人間を飲み込んでしまうような深さがある。漠然とした闇のような不気味さがある。それが怖い。気持ちが弱っているときに、その言葉を吐かれるのが怖い。

明確に思考するために、まずは、その言葉を使わずに自分の気持ちを表現するんだ。①問題の根源は何か、②それを解決するには具体的にどういう行動を取れば効果的なのか。この二つをはっきりと整理するためにも、自分に向かって「死にたい」と言って脳を麻痺させるのは止めて、違う表現で自分の気持ちを表してみるんだ。

あなたは、あまりに①と②を吟味していないだけだ。そして、今、わずかな選択肢から最悪の選択をしようとしている。取り返しのつかない選択肢に頭を支配させている。



死にたい?

本当は、そうじゃないだろ。

問題を解決したいだけだろ。



苦しみを止めたいなら、理論的には、いくらでも方法がある。そこを離れればいい。「最低な人たち」からは、距離を置けばいい。

そういう人間は、そう変わらない。すでに中年になったおばさんたちが、今更、若いあなたの一言で、心を入れ替えるとは思わない。平気で嘘をついて他人を貶める人間に関わり続けたその先に、あなたの未来など待ってはいない。今すぐに、とは行かなくても、具体的なアクションとともに、離れる道筋を付け始めるんだ。

どんな職場も、どんな学校も、絶対不可侵の場所じゃない。不完全な上司と不完全な同僚、不完全な教師と不完全な生徒で構成された組織で、ときとして醜い人間模様が垣間見えることもあるところだ。成熟した人間と未成熟な人間が、混在しているところだ。そんなところは、聖域でもないし、あなたの全てでもない。





高校卒業後、僕はおそらく、あのまま北海道にいたら、つぶれていた。あのままの環境に留まっていたら、生きていたかどうかもわからない。

でも、僕は幸運なことに、その場から離れた。死を選ぶのではなく、その場を離れることを選んで生きてきた。

僕のケースは、あなたとは違う。僕の周りには、「最低の人間」などはいなかった。他の理由で僕の心は押しつぶされていき、ある人の葬儀の帰りに、それが一線を越えた。

自分でも「このままでは、死に至る」と思い、親友に電話で助けを求め、彼はすぐに共通の親友たちを集めてくれた。

でも、彼のアパートに一泊した次の朝、一人での帰り道、頭の中がこんがらがってしまい、「やっぱり、もうダメだ」と思って、再び一線を越えようとした。生きることを止めようとした。今のあなたのように。

最悪なやつと言えば、最悪なやつかもしれない。いきなり親友に助けを求めておいて、思いっきり勇気づけられて、でも、その帰り道に自殺しようとするんだから。もしもあの帰り道に僕が死んでいたら、あのときの親友は、トラウマになっただろう。ほんと、「一体、何を考えてたんだろう」と、あとになって思った。

でも、そのときは、彼らの気持ちなんて全く考えもしなかった。ただただ追いつめられてた。感謝の気持ちと絶望の気持ちが混じった状態で、帰り道もただ泣いていた。

そして、肥大化する自己嫌悪を止められなくなり、僕は以前に若い人の自殺があったという現場に向かい、見知らぬその人と同じ道を辿ろうとした。



でも、「これで全てを終わらせるんだ」と考えつつ、必死で自転車を漕いでいたとき、思いもかけずに、パチンコ屋の駐車場から出てきた車にはねられた。僕は倒れて、自転車は少しねじ曲がった。幸い、幾つかの箇所を擦りむいて出血した程度で済んだ。

相手は、茶髪のあんちゃんと姉ちゃん。そして、このあんちゃん、しれっと車を発車して逃げようとした。錯乱状態で周りに全く注意を払っていなかったのは、僕も悪かっただろう。でも、現場は歩行者優先だ。

「おい、当て逃げか!」

そう思って、血気盛んな19歳の僕は、車を追いかけて蹴りを食らわせ、車を停車させた。サッカー部の走力とキック力が思わぬところで発揮された。



「とんでもないガキを跳ねた」と思ったのか、ここで初めて、あんちゃんが車から降りてきて、必死で謝ってきた。

「ごめん!大丈夫!?」

「救急車呼びますか!」

でも、もう遅い。逃げようとした男に、僕の怒りは止まらない。

助手席から茶髪にジャージの姉ちゃんも降りてきて、「車で病院行く?」とか何とか言っていた気がするけど、その後のことは、はっきりとは覚えていない。

確かに覚えているのは、僕が一言も言葉を発していなかったことだ。何かを言おうとしても、胸のあたりが苦しくて、一言も言葉が出てこなかった。

最後には、僕は一言も何も言わずに、そのまま二人を睨みつけて、再び自転車をこいで、その場を去った。一体、何のために車を止めたのかも、よくわからなかった。



狂ったような怒りに任せて自転車を漕いでいて、ふと気がつくと、僕は行くはずだった、あの自殺現場に向かっていなかった。いつも通っている曲がり角を曲がり、いつも通っている帰路を辿っていた。頭に血が上り、何も考えずにしばらく自転車を漕いでいたら、習慣でいつもの道にいた。

「あっ」と気が付いて、立ち止まった。来た道を引き返すためだ。

でも、ちょうど今自転車で漕いできた道を見つめた瞬間、思わずその場に立ちすくんでしまった。



色々なことが頭をよぎった。

今まで起こった出来事が、記憶の中から這い出して、僕の精神を襲い始めた。



ここを戻ったら俺はどうなる?

どうして戻るんだ?

なんでだ?

俺が死んだら、何が変わる?

時間は戻らない。

あいつは生き返らない。

俺が死んで、誰が救われるんだ?



道を間違えたことで、少しだけ、冷静さを取り戻した。何日か振りに、物を考えることができた瞬間だった。「彼女と同じ苦しみを、僕も味わわなければいけない。彼女と同じように死ななければならない」という思い込みが、少し溶けた瞬間だった。

「彼女は死にはしない」という間違った思い込みを抱いていた自分は、確かに愚かだった。自分は沢山の失敗をした。本当に馬鹿だった。自分にできるはずだったことは、数多くあった。とことん、僕はどうしようもない人間だった。

だから、僕は彼女と同じ苦しみに直面し、死ななければならない。



そうか?

本当にそうなのか?


僕は、そこに立ち尽くして自問自答した。

一時間以上、その場に立っていた。

自転車のサドルに突っ伏して泣き、ここ数年のことを思い起こしていた。



そして、僕は道を引き返さず、そのまま帰路に着いた。



僕は死を選ばなかった。



自分は、今日で死んだんだ。

これからは、全く違った生き方をするんだ。

自分はいつか死ぬだろう。

だけど、そのときは、あのときの彼女や自分のように、苦しんでいる人のために命を使って死ぬんだ。



青臭い、バカみたいな話に聞こえるかもしれないけど、僕はそう思った。

心の底から、そう思った。



僕はその後、生きる場所を変え、東京をステップにして、自分を厳しい環境で成長させようと、アメリカ、カナダに渡った。「あのまま北海道にいては、建設的な人生を送れない。成長も未来も限られる」そう強く思ったからだ。

あれから16年。いつだって、どこにいたって、僕の基準は、あの日の自分だ。あのときの自分に恥ずかしくないように生きることを、人生の岐路に立った時は、いつだって思い起こしている。他の人がどう思うかなど関係ない。周りの人間がどう思うかなど、僕の知ったことではない。あの日の自分の目を見て、自分自身を誇れるかどうかが、僕の生き方の基準になっている。

 

去年、長くなっていた海外生活を引き上げて、起業のために日本に帰ってきたとき、あのパチンコ屋を探して、近くまで行ってみたことがある。訪れるのは16年ぶりだ。近くに用事があったので、その帰り道に、何となく立ち寄ってみたくなったんだ。

僕の中で周辺地域の記憶が薄れているのと、地域の様子が変わっていたのとで、ちょっとだけ現場を探すのに手こずった。

当時の寿司屋やお菓子屋はあったし、立ち寄ったことのあるジーンズショップもあった。でも、あの朝、僕が車にはねられた現場のパチンコ屋はなくなっていた。

「俺がはねられたの、あの辺だな」

景色は少し変わっていたけど、当時のパチンコ屋周辺で立ち止まっていたら、自然と涙が出た。

何の涙かはわからない。とにかく、どうやって止めていいのかわからないくらい、次々と涙が流れた。そして、行き詰まって苦しみ、自分を責め続けていた昔の僕に、かけてやりたい言葉がとめどなく溢れてきた。



あれから16年。長いようで短い16年。色々なことがあった。誠実で心のきれいな人間にも、下衆しか言いようのないことを平気でやる卑劣な人間にも、カナダでたくさん関わってきた。

それでも、16年ぶりにあのパチンコ屋周辺を訪れたとき、僕が昔の自分にかけたくて浮かんだ言葉は、充実感に満ちたものだった。

「死のうとしていたおまえは、東京に行って、それからアメリカの大学、カナダの大学院に奨学金で通うんだ。アメリカでは優秀論文賞を、カナダの大学院でも論文の賞と宗教教育の賞をもらい、色々な国籍の人たちと仕事をする。トロントでは、死ぬまで忘れられない思い出を沢山作って、その後、生涯のパートナーにも出会って、毎日に感謝しながら幸せに生きるんだ」

あのときの僕は、今の僕のことを「おかしな野郎」と思うかもしれない。そんな言葉を聞いて、怒り出すかもしれない。

「ありえねーわ。そもそも、俺は英語できないし、海外なんて興味ない。それに宗教教育ってなんだよ。洗脳かよ」って。

でも、人生は奇妙なもの。誰にも予測がつかないほど、不思議なもの。僕たちをどこに導いてくれるか、本当に想像もつかないときがある。

「確かに辛い思いを沢山する。でも、おまえは生きのびる。沢山の友人と、大切なパートナーに出会って、会社を起こすために日本に帰国する。そして、この場所に帰ってきて、19歳の自分に全部を報告するんだ。『いろんなことがあったけど、俺は自分の自信を証明したぞ』って」



「今までの人生で最も幸せな瞬間はいつだったか」と問われれば、僕は迷わず、この報告をしたときを挙げる。昔の自分に、人生を終えようとしたどん底の自分に、「努力を重ねて、幸せになって帰ってきた」って報告した瞬間を挙げるよ。


あのとき流した涙は、昔の痛みや混乱が思い出されたときの涙であると同時に、幸せの涙でもあった。努力してきた16年間、苦しかった16年間、それでも、自分なりに幸せの欠片を集めて振り返ることができる16年間。「いま幸せに生きてる」って、一番苦しんでいたときの自分に向けられる、前向きな涙だった。



僕は、あのときと同じ涙を、いつかあなたにも流してほしいと思う。痛みや理不尽さに翻弄されつつ、それでも「ここまで来たんだ」という、達成感とも手放しの喜びとも違った、不思議で温かい感情の涙に、いつかその優しい心を包んでほしいと思う。


そのためには、あなたは生きなければならない。

将来、今の場所に戻ってきて、昔の自分に胸を張って報告ができるように、自分の人生の先を、その目に焼き付けなければならない。

未来の自分がここに帰ってこられるように、どんなことがあっても、生きて自分の物語の続きを見届けなければならない。



これから無数の「今」を生き抜いて、5年、10年、15年、自分の人生を積み重ねていく。簡単な道のりじゃない。大変な状態の「今」から、将来に続く無数の「今」なんて、想像したくもないかもしれないね。

僕は、あなたにバラ色の将来を保証することはできない。「生きていれば、きっといいこともあるよ」なんて、能天気で無責任な言葉を吐く気もない。

人生は不条理だし、不公平だ。これは、今となっては、誰が言うまでもなく、あなた自身がよくわかってることだよね。



この社会には、他人の気持ちや苦しみなんて、歯牙にも掛けない人間がいる。たぶん、これからも、あなたが言うような「最低の人間」に出会うことになるだろう。気に入らない人間を嘘で貶める卑劣な人間に会うかもしれない。ジキルとハイドのように、表と裏が全く別人で表面だけを取り繕う人間にも会うかもしれない。あなたのように人間の悪意や嫉妬を憎む性格の男であれば、なおさら、そういった「最低の人間」には疎まれるかもしれない。冷酷な攻撃を受けるかもしれない。

でも、たとえどんな状況にあったとしても、あなたがしなければならないことは、死ぬことじゃない。そういった人間に、自分をコントロールされない意思を奮い立たせることだ。自分の人生の舵は、自分で取るんだ。心ない他人に操縦席を譲るなんて、あまりに悲しすぎるだろ。

とりあえず、その場から離れてもいい。とりあえず、卑劣な人間とは縁を切ってもいい。とりあえず、心を抹殺するような環境から、自分を切り離していい。

何をおいても、まず生きることだ。新たな人生を生きるという選択を、強く真っすぐな意志を持って行うことだ。そして、自分が1年後、5年後、10年後に自分がどうありたいか、というビジョンをしっかり描いて、その実現のために、毎日少しずつ、具体的なアクションを習慣化しつつ、積み重ねていくことなんだ。



グーグルアナリティクスの分析が正しければ、大阪からアクセスしてるだろ。色々な国の友達を紹介するから、今度一緒に新しい世界を見てみよう。学部過程を最後まで終わらせたいんだったら、ポーランドやハンガリーに留学、なんて手もある。日本で大学に行くよりも、ずっと安く、しかも英語で教育が受けられる。成績と努力次第だけど、最低、英検二級程度あれば、ハンガリーの大学には行ける可能性がある。



日本は広い。


世界は広い。


今のあなたが想像できない世界が、無限に広がってる。僕たちが漫然と住んでいる社会は、本当に狭い。水たまりから大海に舟を漕ぎ出して、そこで何を感じるか、毎日がどう変化するか、試してみるのも悪くないだろ。

留学で余計に世界が嫌になるかもしれないけど、僕はこれからも、あなたの味方だ。こんな人間も、この世界には沢山いると思うよ。きっと、日本も、世界も、あなたが思う以上に、ずっと多様で、ずっと広大だろうからね。



やす

どんなにつらいときでも、たとえ死にたいときでも【自殺を考えているTくんへの手紙】

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ABOUTこの記事をかいた人

Yasu is the founder and CEO of Good Friends Japan. We aspire to offer opportunities of international education to unprivileged young adults. リベラルアーツ教育研究、英語学習のためにICUを中退。アメリカ、カナダに学部・大学院留学。米の中高の特別講師、サッカーの助監督、カナダで路上生活者と共生。カナダの教会で、異文化教育、カウンセリング、葬儀等を担当。シンガポール勤務を経て、児童養護施設出身者、中退・引きこもりの若者など、社会的に困難な状況でがんばる人たちの国際教育支援チーム創設。教育学修士。@yasukuwahara