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人生の話

アメリカで起きた「奇跡」の話

1876年、アメリカの田舎町。 9歳のある少女が、緊張型精神分裂病と診断され、精神病棟に入れられた。彼女の名前は、「アン」といい、みんなからは「アニー」と呼ばれていた。 愛する母と弟が相次いで亡くなり、アルコール依存症の父にも育児放棄されたアニー。さらに目の病気で両目の視覚が閉ざされた彼女は、このとき拒食症を併発し、専門家が見ても治る見込みがないほど、絶望的な精神状態だった。自分を抑えきれず、暴れてしまうことも多々あった。 アニーの荒れた言動は、精神病棟に入れられた後も、一向に変わらなかった。あまりに職員の手に負えないアニーは、精神病棟の中でも、段々と厄介者扱いをされていく。   しかし、そんな精神病棟の中にも、一人だけ、アニーの回復に希望を見出す女性の看護師がいた。アニーが彼女を無視したり、暴言を吐き続けたりする中、この看護師は、毎日毎日、どんなことをアニーにされても優しく話しかけ、幼い彼女のために、ブラウニーやクッキーなどのお菓子を持っていった。 看護師が、次の日、アニーのところへ行くと、確かにお菓子はなくなっている。アニーは、看護師が持って行くお菓子を食べているようだった。 それでも、アニーの態度は、変わらない。お菓子をおいていってくれる看護師には、注意を払うことは一切せず、相変わらず、彼女の方を見向きもしなかったり、彼女に暴言を吐いたりする毎日だった。   しかし、そんなアニーにも、少しずつ変化が訪れる。親しみを持って、根気強く心を開き続ける看護師を前に、少しずつアニーの暴力的な言動はなくなっていき、看護師の呼びかけにも、わずかに応える日々が出てくるようになった。 見捨てずに信じてくれたその看護師と少しずつ交流していくうちに、年月は流れ、アニーは周りが驚くほどの回復を見せる。その回復の順調さに、アニーは病棟付属の学校に通い始めることを許され、ついには、アニーは精神病棟から完全に解放されていく。   人並み以上の努力を費やし、非常に優秀な成績で学校を卒業したアニーが選んだのは、教師への道。アニーは、自分と同じように障害を持った子供たちの先生になることを決意した。   アニーの名前は、アン・サリバン。   ヘレン・ケラーの家庭教師「サリバン先生」とは、このアン・サリバンのことだ。 アニーは、のちに、盲目の教育者と呼ばれたヘレン・ケラーの先生となり、生涯を通して彼女の親しい友になっていく。   ヘレン・ケラーは、目が見えず、耳も聞こえなかった。視覚も聴覚も、生まれつき、ほとんど閉ざされていた。 美しい物語ばかりが語られる傾向があるが、ヘレン・ケラーは、幼少時から美談を重ねられるような人物ではない。視覚と聴覚に困難を抱える幼いケラーは、その不自由さからくるストレスからか、「怪物」と称されたこともあったほど、わがままで乱暴な子供だった。   しかし、ケラーは、その目と耳のハンデを跳ね返す。彼女は必死で学んで大学を卒業し、その一生を障害を持つ人々の教育や福祉に用いた。ケラーの人生の物語は、多くの人々を勇気づけ、今では彼女は世界中で知られた教育者、福祉活動家として知られている。 このヘレン・ケラーが7歳のとき、家庭教師として呼ばれたのが、20歳になったアニーだった。 学ぶ気力も無く、わがままで頑なだったヘレン・ケラー。 アニーは、その幼いケラーの先生となり、やがて生涯の友となっていく。精神病棟を出たあのアニーは、その後、投げやりで自分勝手だったヘレン・ケラーのいのちに、確かな奇跡の種を植えていく。   アニー・サリバンの生涯。 それは、幼い頃に厄介者のアニーに根気強く付き合ってくれた、あの看護師を抜きにしては語れない。名もない一人の看護師は、幼いアニーの心に奇跡を起こす。 そして、そのアニーは、生み出されたその奇跡に活かされながら、この世界に、もう一つの奇跡、ヘレン・ケラーを生み出していく。 さらに、ケラーは、そこから、次の奇跡の種を世界中に植え、生み出された奇跡は、またさらなる奇跡を生み出していく。     奇跡は、連鎖する。 させることができる。 僕は、そう信じて生きている。 奇跡とは、超自然的な出来事のことではない。エスパーが起こす、感覚では捉えられない何かのことでもない。ヘブライ語やギリシャ語で綴られた聖書で語られた「奇跡」という言葉も、英語で言えば「Wonder」であり、「Supernatural(超自然的)」の意味ではない。実際に、聖書で語られる「奇跡」のドイツ語訳も「Wunder」であり、超自然的なマジックの意味はない。 奇跡とは、古代の人が神の業としか例えようがなかったほど、畏敬の念や感嘆と驚嘆に包まれる出来事。 そんな奇跡は、誰の周りにも溢れている。 僕たちにも起こすことができる。 名前すら知られていない、あの看護師が幼いアニーに起こしたように。 そして、アニーが幼いヘレン・ケラーに起こしたように。   (アン・サリバンとヘレン・ケラー)

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恩人の石川欣三郎さん

2010年11月。苦難の時代に多大にお世話になった石川欣三郎さんが、僕がバンクーバーを離れて半年後に亡くなった。 石川さんは、パートナーの磯和さんと一緒に、 「桑原くんのメッセージだけは、私たちは毎週ボイスレコーダーに取ってあるんですよ。桑原くんの時だけは、教会を欠席しちゃいけないと思ってね」 「桑原くんは、どこにいたって成功するんだから、教会にいたら、もったいない気がするんですよ。私たちみたいな老人が教会に留めてしまって、若い桑原くんの未来を奪ってるんじゃないかって」 と、いつも僕に過分な言葉をかけてくれ、事あるごとに気遣ってくれた。 僕に不倫関係を迫ってきた中年女性に断ったことへの陰湿な仕返しをされたときも、日本で職を失って居場所のない牧師夫婦の陰湿な言動に悩まされたときも、詐欺事件を起こしてバンクーバーに逃げてきた男に嘘で攻撃されたときも、いつもいつも、石川さんは助けてくれた。優しい言葉をかけてくれた。 今の仕事ができるのも、バンクーバーで支えてくれた石川さんのおかげ。僕にとっても、Good Friends Japanにとっても、石川さんは、とても、とても重要な人だ。 「ヨーロッパと台湾でうまくやってます」、「これ全部、学生たちからの温かいメッセージです」って、何とかして石川さんに今の状況を報告したい。時々、そんな気持ちに駆られる。もう二度とできはしないことくらい、痛いほどわかってはいても。 本来は僕が司式するはずだったバンクーバーの記念礼拝(葬儀)で読み上げてもらうために、オンタリオ州の教会に招聘された僕がバンクーバーに送ったのは、ソファを叩きながら、涙を流しながら、震える手で書いた、以下の文章。ふとしたきっかけで、先日、Google Driveから引っ張り出して、久しぶりに自分で読んでみたら、色々な感情がぶり返してきた。 今回、石川さんが亡くなったというEメールを受け取り、教会の仕事の疲れが吹き飛ぶくらいに驚きました。私がバンクーバを発つ前、石川さんはご自分の健康状態を冗談にして、「記念礼拝(葬儀)の司式は頼むよ。桑原くんって、決めてるんですよ。だから、早く戻ってきてくれないと、間に合わなくなっちゃう」と言って笑っていました。 「早く戻ってきてくれないと、間に合わなくなっちゃう」というのは、以前からの石川さんの口癖で、私がバンクーバーにいた6年間で、何度おっしゃっていたか分からないくらいです。しかし、まさか、本当に間に合わなくなるとは思っていなかったので、今回、石川さんが亡くなったと聞いて、とてもショックです。 正直、私がバンクーバーを離れて半年でこのようなことになってしまったこと、牧師が不在のときにこのようなことになったのは、とても悔しく、とても残念に思いました。 しかし、V教会(*イニシャルにしてあります)には、私に様々なことを教えて下さった素晴らしい信徒の方々がいらっしゃり、何かがあれば、その人のために尽くす信徒の方々がいらっしゃいます。今回、病院に入院した石川さんのことも、様々な方が訪ねて下さっていたようで、「教会の家族とはいいものだ」と改めて思いました。 石川さんとは、本当に色々なことを共にしました。 教会のことで議論をし、辛い時には励まされ、食事をしながら笑い合い、意見の相違があるときも、若くして教会の職に就いた私の立場や考えを尊重してくれました。未熟な私にも、温かい言葉をかけてくれました。 私にとっての石川さんは、様々な面を持っていました。 まず、石川さんは、とても真摯な方でした。 石川さんが語る言葉に表面的な薄っぺらさはなく、言葉の一つ一つが心から出ているものでした。石川さんがお話をするときは、本当に心で思っていることだけを話して下さるので、それがたとえどんなものであっても、石川さんとは、いつも信頼と安心を持って言葉を交わすことができました。決して言葉数の多い方ではありませんでしたが、その分、石川さんの言葉には重みがあり、分かち合って下さったことの多くを、今でも鮮明に思い出すことができます。 また、石川さんは、真面目であると同時に、冗談の好きな方でした。 磯和さんも冗談の好きな方なので、何でもない冗談を、三人でよく笑い合っていたことを思い出します。 Tsaiさんのお知り合いの一平くんが教会に来ているときには、石川さんと男三人でよく話をしていました。あるとき、石川さん、磯和さんのご自宅に一平君と二人で招待をされたときに、「石川さんは、親切すぎです。ここは大先輩として、この不届きな一平にガツンと言ってやって下さい。僕は、石川さんのお宅に、とんでもない男を連れてきてしまいました(笑)」、「いや、桑原さんこそ、とんでもない先輩です。石川さん、締め上げておいて下さい(笑)」などと一平君と二人でふざけていたら、心臓にペースメーカーを入れている石川さんは、お腹を抱えて笑っていました。 その後、「すみません。笑い過ぎて心臓に悪いかも知れないですね」と一平君と二人で言ったら、石川さんが「いや~、逆に心臓が元気になるかもしれないよ」と返してきて、またまたみんなで大笑いしました。何だか、それもつい先日のことのようです。 そして、石川さんは、何よりも信仰者でした。教会の共同体とはどういうものであるべきかを真剣に考え、イエスの歩いた道を歩こうとした信仰者でした。 「ナザレに生きたイエスは、救い主だ」とは教会でよく言われることです。しかし、それが私たちの日々の中で具体的に何を意味するかは、教会では、実はあまり共有されていません。 イエスが救い主キリストであるのは、漠然とした教会の宗教的観念が、そのようなことを語っているからではありません。教会の教理を信じても、信条に「その通りです」と告白しても、それは人の世界を変え、生き方を変えることは決してできません。 イエスが救い主であると言われるのは、イエスの言動を通して、その歩いた道を私たちが実際に歩くことを通して、わたしたちが、神が一人一人に与えた「いのち」に触れ、死ですら終わりにすることのできない「いのち」に生きることができるからです。そして、その「いのち」によって、私たちが新たに作り変えられることができるからです。 カナダ合同教会の信条にもあるように、イエスが語った永遠の「いのち」、わたしたちの時間の概念ではかれない「いのち」というのは、死のあとの命のことではなく、死を超えた「いのち」のことです。死んだあとの命、というのは、どの宗教においても触れられる傾向がありますが、キリストの教会が語り続けるのは、死後の命というよりも、今現在、ここで生きる「いのち」のことです。自分を殺し、他人を殺し、世界を殺すのではなく、神に作られたもの全てを生かし続けるような「いのち」-それが教会が伝え続けるイエスの「いのち」です。 ご自宅に何度も招待して下さったり、聖書を読む会にはほぼ欠かさずに来て下さったりと、石川さんとは多くの時間を過ごす機会に恵まれました。私が石川さんと身近に接した中で思うことは、石川さんは、誠実に、その「いのち」を生きようとしていた、ということです。 石川さんは勉強熱心な方で、聖書を読む会では、こちらがハッとさせられる意見も出して下さいました。おそらく、聖書やキリスト教に関する沢山の知識も持ち合わせていたことでしょう。 しかし、何よりも私の印象に残ったのは、石川さんの言葉や笑顔の裏にあるキリストの「いのち」でした。 「いのち」を生きている人は、他人を活かすことができます。ちょうど蝋燭(ろうそく)の明かりと同じように、「いのち」を生きようとする人は、「いのち」の光で人を照らし、凍える人を暖めることができます。私にとっての石川さんとは、まさにそのような方でした。話をすると安心することができ、イエスが語る「いのち」を分け与えられる、そのような方でした。  みなさん、今日は、その石川欣三郎さんの記念礼拝です。どうか、みなさんで石川さんが生きた、そして今も消えない「いのち」を覚え、一緒に祝福して下さい。石川さんの「いのち」は、今も消えていません。石川さんが生まれ、日本やカナダの地に生き、私たちと「いのち」を交えることができたことを、みなさんでお祝いして下さい。 石川欣三郎さんと出会い、心を通わせ合い、教会の家族としてときを過ごすことができた。今日は、そのことが祝福される日として下さい。 私は遠くオンタリオの地にいますが、最後の最後まで石川さんを近くで支え続けた磯和さんを始め、ご家族やご友人のみなさんのことを祈っています。石川さんが日曜日にいつも座っていた礼拝堂で、石川さんの想いが詰まった教会で、どうか、みなさんにとってよい記念礼拝が持たれますように。    桑原 泰之 2010年11月27日

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大切な人を大切にすることほど、大切なことはない【元アメフト選手の話】

アメリカの小さな町に、プロのアメリカンフットボール界で活躍したオニール(仮名)という男がいた。 オニールは、幼い頃からアメフトで頭角を現し、順調に大学チームでも活躍し、やがてプロへの道を歩み始めた。彼は懸命にアメフトに取り組み、結婚して数年後、いくつかのチーム記録を残して引退した。 時は過ぎ、オニールは、三人の息子と一人の娘の父親になった。 彼の三人の息子は、当然のように、幼い頃から父親にアメフトを叩き込まれ、毎日毎日、暗くなるまでチーム練習、個人練習に明け暮れるようになった。 オニールは、この三人の息子をプロ選手にしようと、全身全霊を傾けた。毎日毎日、息子たちの練習に根気強く付き合い、厳しくアメフトの基礎を仕込んだ。 父親に似て才能溢れる三人の息子達は、やがて十代の少年になり、順調に大学フットボール界への階段を上り始めていく。 しかし、その一方、オニールの愛する末の娘は、原因不明の過食症で、どんどん体重が増え、ついには100キロを超えるほどになっていった。 数か月がたち、妻から相談を受けたオニールは、娘が精神的な病気を抱え、体重も100キロを超えて、明日から入院しなければならないほどだ、ということを聞いて驚いた。 「そんな馬鹿な。一体、あの子に何が起こったんだ!?」 オニールは、娘を溺愛していた。三人の息子たちと同じように、いや、場合によってはそれ以上に、愛娘のことも深く愛していた。すぐさま娘のところに飛んでいき、「どうした?おまえに何が起きてるんだ?」と尋ねた。 しかし、彼女は答えたがらない。彼と目も合わせようとしない。何度、接触を試みても、つれなく追い返されるだけだった。 「あれほど良い関係だった娘がなぜ?」 あれだけ自分に懐いていた娘が心を開かないことに、オニールは戸惑った。 「娘に何が起こったんだ?あの子の何が問題なんだ?」 彼は、心のモヤモヤを晴らすことができない。 「問題なのは、あの子ではないわ。あなたよ」 その夜、彼の言葉を聞いた妻は言い放った。   「何だって?」 「『あの子に何が起こったんだ?』じゃないでしょう。私もあの子も『パパに何が起こったんだろう』と思ってた。あなたが問うべきは、『What happened to her? What’s wrong with her?』じゃない。『What happened to ME? What’s wrong with ME?』でしょ」 オニールは、憔悴し切った妻の唐突な言葉に戸惑った。 「オニール、あなたは自分が息子たちにかけた時間と、娘にかけた時間を天秤にかけて考えたことあるの?」     「あの子の何が問題なんだ?」 父であるオニールにとって、本当の問題は、娘ではない。娘に何が起こったか、ではない。今の今まで、こんなことになるまで、そのことに全く注意を向けていなかった彼自身だ。 「娘には、いつも会っていたはず。挨拶を交わしていたはず。でも、気が付かなかった。言われてみれば、確かに顔がふっくらしてきたとは思ったが、娘の変化に、外側の変化にも、内側の変化にも、気が付かなかった。オレは、一体、何をしていたんだ?いつも会っている娘だったのに。一体、オレに何が起こってしまったんだ?」 本当の問題、問題の根っこは、娘ではない。自分だ。今の今まで、こんなことにさえ気がつかなかった自分だ。三人の息子をプロ選手にするために全身全霊を傾け、自分が思う以上に娘に注意がいかなくなっていた、娘に時間を割かなくなっていたオニール自身だった。 オニールは、やっとのことで、本当の問題に気が付いていく。 彼は、次の朝、妻と共に娘の部屋に行き、自分がいかに愚かだったかを、率直に二人の前で告白した。 息子たちと同じくらいの時間を娘に割いていたと思い込んでいたが、全くの間違いだったこと。 自分の過ちを許してほしい、ということ。 今から自分にチャンスを与えてほしい、ということ。 大男の元アメフト選手が、涙ながらに、心の内を家族の前にさらけだした。 娘は彼の謝罪を受け入れた。大きなハグとともに受け入れた。娘も、妻も、オニール自身も涙が止まらなかった。   10年前、僕がオニール一家のバーベキューに招待された時、オニールのそばには、彼の娘、そして娘の子供たちがいた。 オニールと僕は、僕が地域サッカーのコーチと審判をしていた時に、この子供たちを通して知り合った。 「娘からいつも話は聞いてるよ。孫と忍者トレーニングしてるんだって(笑)。オレみたいなジジイも忍者にしてくれるか?がははは」 オニールは非常に親しみやすい性格で、孫が僕と仲が良かったせいか、僕の隣に座って色々な話を聞かせてくれた。切羽詰まって苦しんでいた僕の胸の内も、本当に真摯に聞いてくれた。 これから奨学金をもらって大学院に行くという僕の決意を聞いていた彼は、不意に僕に言った。…

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路上生活者の大切な「椅子」を壊したお婆さんの話

昔々、東京がまだ江戸と呼ばれていた時代のこと。 一人のおばあさんが路地を歩いていたら、道端に座っていた路上生活者の男が、彼女に声をかけた。 「ばあさん、銭を恵んでくれ」 「そうは言っても、私には何もあげるものはないよ。それに、たとえお金をあげても、あんたの生活は、明日も変わらないだろうね」 「そうかもしれないけど、俺はいま銭が欲しいんだ」   「でもね」 おばあさんは言葉を続けた。   「質問していいかい?あんた、何の上に座ってるんだい?」   「ゴミだよ。何年も前に、川底で拾ってきたのさ。硬さと高さがちょうどいいんで、ずっと椅子にしてるんだ」   「私には箱に見えるね。中を開けて見たことはあるかい?」   「壊さないと開けられないよ。でも壊したら、俺の椅子がなくなっちゃうじゃないか」   「ちょっと、このお婆に箱を見せてくれるかね」   おばあさんは、そう言って箱を受け取り、いきなり近くの岩に叩きつけた。   「何すんだ、ばあさん!」   壊れた箱の隙間から見えたのは、金の塊だった。   「これだったら、日本で一番高価な椅子だって買えるだろうよ」 おばあさんは、そう言って男を抱きしめ、微笑みながら去っていった。 苦難の中にいる人を前にしたとき、何かを与えることも、時には必要かもしれない。でも、多くの場合、もっと大切なことは、既に手にしているものの価値を、実感できるように提示することかもしれない。その人が既に秘めている存在の価値に気がつくきっかけを与えることかもしれない。 たとえ何も与えられなくても、人には、できることがある。

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嫉妬のあまりに自分の羽を差し出し続けた大きなワシ

昔、二羽のワシがいた。一方の小さなワシは、長い時間かけて飛ぶ練習をしていたこともあり、もう一羽の大きなワシよりも、速く、空高く跳ぶことができた。同じように飛べない大きなワシは、表情には出さないものの、この小さなワシのことを、いつも心で苦々しく思っていた。 そんなある日、嫉妬を抱えた大きなワシは、一人の狩人に出会う。そして、狩人にこう頼んだ。 「謝礼は払うから、あの小さなワシを弓矢で射殺してくれませんか?」 狩人は答えた。 「今は矢につける羽がないけど、それがあれば何とかできる」 「それなら、これで」 ワシは、自分の羽を一枚差し出した。   「ああ、これなら大丈夫だ」 狩人はその羽を矢につけ、優雅に飛び回る小さなワシをねらって、鋭い一発を放った。 「ダメだ!逃げられた!あいつは見事に空を飛ぶな。これは難しいぞ」 「あんなの、大したことないですよ。もう一度、お願いします」 その後、嫉妬心を抑えきれない大きなワシは、何とかしてあの小さなワシを殺そうと、狩人が狙いを外すたびに、何度も何度も自分の羽を差し出した。ただ、あの有能な小さなワシに弓矢を食らわせてやろうと考えながら。 しかし、それでも小さなワシは射止められない。 「すまんが、あいつは俺には手に負えないよ」 何度も失敗して根負けした狩人は、やがて、そう言って去っていった。 取り残されたワシは、あまりに多くの羽を失って飛ぶことができず、その夜、狼に食い殺された。   嫉妬から相手を攻撃しても、失うのは自分自身の羽。そういう人間からは、周りの人間は離れていき、やがて飛ぶことさえもできなくなる。 自分の羽は自分が飛ぶために使うのが、幸せになるための第一歩。他人を撃ち殺すために羽を使っていては、あなた自身は一生、大空を飛ぶことはできない。

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お婆さんを背負った二人の僧侶

ある日、二人の僧侶が田舎町を歩いていた。収穫物の運搬のために、ある村へと向かう最中だった。 その道すがら、老女が川のほとりに座り込んでいるのが、僧侶の目に入った。橋が架かっていないので、川を渡ることができず、困っている様子だった。   一人目の僧侶が、親切に申し出た。 「よろしければ、川の向こう側まで私たちが運びますよ」   「ありがとう」 老女は、そう言って、申し出をありがたく受けた。   二人の僧侶はお互いの両手を組んで、老女を組んだ腕に乗せ、川を渡った。渡り終えると、二人は老女を下ろし、彼女はお礼を言って、そのまま道の向こうへ消えていった。   僧侶たちも旅路を続け、10キロほど歩いたところで、一人の僧侶が不満をこぼし始めた。 「ああ、この袈裟を見ろ。あの婆さんを運んだせいで、泥だらけだ。それにいきなり重いものを運んだから、背中も痛む。」 もう一人の僧侶は、微笑みを返して、黙って頷いた。   また10キロくらい進んだところで、同じ僧侶が、再びブツブツとこぼし始めた。 「背中がすごく痛い。あんな婆さんを運ばなきゃよかった。もう歩くのも辛いよ」 別の僧侶は、道端に横たわり、不満を並べる相方に言った。 「きみはいつもそうだね。きみと違って、僕がどうして文句や不満を言わないのかわかるかい?」   彼は言葉を続けた。 「きみが不平不満を止められないのは、今もきみの心が、おばあさんを背負い続けているからなんだ。僕は、川を渡った所で、とっくにお婆さんを下ろしているのに」   他人の言動に対して、僕たちは同じことをしがちだ。もしも、あなたが不満を並べる僧侶なら、いなくなったお婆さんを、ちゃんと背中から下ろして、生きた方がいい。過去のことは、学びの材料にするだけで、背中に背負いこまない。過去の嫌なことは、人の精神を支配しやすい。でも、それに引きずられて生きていると、今日という日は、いつまで経っても満開には咲き誇らない。

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緊急着陸のサインを出さなかったパイロットの話

1990年、コロンビアからの飛び立った飛行機が、ニューヨークのJFK国際空港近くで墜落し、73人の乗客が帰らぬ人となった。この痛ましい事故が起きた原因は、飛行機の燃料切れだった。 燃料切れで墜落というのは、航空業界では珍しい。法律によって、目的地まで往復でき、更にしばらくは飛行できるだけの燃料を、飛行機はいつでも積んでいるからだ。 悲劇の引き金になったのは、パイロットが発した信号にある。 信号には、優先着陸、緊急着陸がある。状況によって、余裕があれば優先着陸の要請を、余裕がなければ緊急着陸の要請をすることになっている。 墜落機のパイロットが発したのは、緊急着陸ではなく、優先着陸の要請。天候が悪く、空港の上空が他の飛行機の離着陸で混み合っている中、パイロットは緊急着陸のサインを使わなかったため、着陸の順番が後回しになっていき、のちに対応が手遅れになって、燃料切れで墜落した。 そして、取り返しのつかない悲劇が起きてしまった。   いじめやハラスメントだって同じだ。心の燃料が切れる前に、緊急着陸の合図を出さないと、最悪の事態を引き起こす可能性がある。飛行機と同じように、危ない状況になったら他者に合図を出す。緊急時には、「こういうことがある」という程度の合図ではなく、「もう無理だ」という緊急の合図を出す。 そうでないと、対応を後回しにされたり、真剣に対応してもらえず、どんどんと切羽詰まった状況が起きる確率が高くなる。集団で一人の人間を陰湿に攻撃するのは、魂の殺人だ。この「殺人」の犠牲になる前に、緊急着陸の合図を出してほしい。 また、合図を受ける側の人は、いじめやハラスメントの被害者が、我慢に我慢を重ねた後、誰かに助けを求めたら、それは既に優先着陸ではなく、緊急着陸の要請だと捉えてほしい。 しばしば集団の陰湿さの攻撃対象になるのは、普段は内向的な人たち。他人に被害を訴えるには、大きな勇気がいる。その人たちが何らかのSOSを出した時点で、それは優先着陸ではなく、既に緊急着陸の要請だ。そう思って、真剣に向き合ってほしい。

人生の話

今までの人生で最も幸せな瞬間はいつだったか

ときどき、「生きているのが嫌になった」、「人生の幕を閉じたいです」という人からメールをもらう。カナダで働いていた2007年くらいから、ちらほらと、そのようなメールを受け取るようになった。 あの頃は、短い海外生活ブログを、ほぼ毎日更新していた。アクセス数も伸びたけど、バンクーバーからカナダの東部に引っ越すときに、ある理由で全てを閉じた。 トロントでまた新しくブログを始め、そこでも僕が書く内容に呼応して、精神的にギリギリの状態にいる人たちからのメールが来るようになった。バンクーバー時代のブログの読者が、検索を重ねて、僕を探し出してくれたケースもあった。 カナダでの僕の仕事の大部分が、誰かの死によって狂乱した人の人生をサポートすること、要望があれば問題の解決に乗り出すことだった。ブログの影響もあり、知らない人たちにも名前や顔が知られるようになり、ものすごい数の電話やメールを受け取り、僕の心身が限界にきたことも何度かある。全く異文化の中にいながら、あのような責任ある立場で、普通の仕事では考えられないプレッシャーを背負いながら生きる20代は、良くも悪くも、そうはいなかっただろうと思う。 正直、今の仕事は、当時ほどの莫大なプレッシャーはない。ごく稀なケースを除いて、誰かの命がかかっている、という仕事ではない。 今はもう、自分の両親や祖父母のような年代の方々から「先生」と呼ばれ、知らない人たちにまで顔が知られる生き方はしていない。ベンツで迎えが来て、カナダの高級マンションでワインを飲みながらミーティングという「これって教会がするようなことですか?」と思わず言ってしまうような生活もしていない。 町を歩いていて、全く知らない人から「あら桑原先生!」、「Hi. You are the one from Vancouver, right?」などと声をかけられて、焦ることもない。 「あんなに頑張ってたのにどうして?」、「なぜ日本に帰ったんですか?あなたのような人が組織を変えていくんですよ」、「もったいない。あなたがいないと何も変わらない。カナダに戻ったらどうですか?」などと言われても、これから再び同じことをすることはないだろう。結局、組織内の醜い争いや足の引っ張り合いに巻き込まれ、組織内の調整に追われて、自分の使命の実行は妨げられるのが目に見えているからだ。 僕は嘘や虚飾や暴力が当たり前になっている人間関係の中で生きることは、もう二度としたくない。そんな環境に大切な人生の資源を割くより、他の方法で自分の使命を実行したほうがいい。基本的に僕は決めたことに柔軟なほうだと思うけど、こればかりは文字どおり死の一歩手前まで追い詰められて決めたことであり、これから心変わりすることはない。 ただ、立場は変わっても、当時から魂を削って実行していたことは、これからも続けたいと思っている。自分がしていたことは、ただの仕事ではなく、「人生」という大きな存在から自分に与えられた使命だと思っているからだ。 そのようなことの一つが、卑劣な人間の心の歪みの犠牲になっている人たちと、少しだけ共に歩く時間を持つこと。僕も仕事をして生活していかなきゃいけないので、あまり多くの時間は避けないけど、深刻な内容のメールをもらったら、仕事に関係がなくても、確実に返すようにしている。 個人情報がわかる部分は少し書き換えをしているけど、以下のメールも、そのような状況で書いたものの一つ。僕が送った2014年最後のメールだ。   メールをどうもありがとう。そして、応援メッセージもありがとね。今はすごく体力的にキツい時期だから、特に勇気づけられたよ。大変な中、僕のことまで気遣ってくれてありがとう。 本当に、本当に、色々なことがあったんだね。メールには書き切れないくらい、苦しいことが、叫びたいくらい辛いことが、山のようにあったんだろうね。そんな中で、僕のことを対話相手に選んでくれたこと、僕は嬉しく思う。 僕は、卑劣なことをする人たちの精神的幼稚さの犠牲になる人を、少しでも減らしたいと思ってる。卑劣なことをする人間がいれば、当然、その犠牲になる人もいる。カナダに住んでいた頃、一部の人たちが、人間としてとても看過できないことをするのを、僕は見てきた。犠牲者の一人は帰国を余儀なくされ、ある人は「二度とあんなところには行きたくない」と行って僕に涙を見せ、またある人は嘘の噂話をばらまかれて、人生の変更を余儀なくされた。 僕は、こういった犠牲者を減らしたい。少なくとも、僕の周りではなくしたい、と思ってる。だから、いじめや集団ハラスメントなどの被害に遭っている人には、なるべく時間を裂くようにしている。もともと、教会でそういう活動をしてたから、その流れで、帰国後も、ずっとこれだけは続けてるんだ。 今回のように、いつか誰かが僕の書いたものを読んで、何かを感じてくれるかもしれない。「やっぱ、死ぬのはやめとこう」と、思い直すかもしれない。以前に、一人の親切な人が僕が書いたものを読んで、「私もとにかく生きてみます」と言って、自殺を思いとどまってくれたことがあった。たった一人にでもそういった効果があるのなら、僕はこれからもここで発信していきたいと思ってる。 誰のためでもなく、昔の自分自身が呼び起こされて、僕自身が苦しまなくて済むように。 苦しんでいる人に「自殺は世間の迷惑」とまで言う人間がいるのは、悲しいことだと思う。迷惑がかかるなんて、そんなもの、本人が百も承知だろうにね。そうやって言う人たちは、自殺する人を、どこまでのおバカさんだと思ってるんだろうな。迷惑も苦しみも分かった上で、それでも死を選ぶという選択なのに。 あなたの耐えられない苦痛に思いを馳せない人たちの言うことは、聞く必要がない。あなたの生死の問題に関して、あなたの状況を直視しようとしない人のことには、耳を傾ける必要はない。人は自分の思い込みで、事実そっちのけで勝手に言いたい放題のことを言う。何を言われても、そんなどうでもいいやつのことは放っておけばいい。くだらない人間の言動に振り回されるのは、今すぐやめるんだ。 あなたは自分勝手ではない。断じて違う。多くの自殺は、実際は社会による殺人だ。状況が人を追い込んで、精神的な安静を奪う。周りの人間が作った状況が、あなたの心臓をえぐっていく。あなたは死ぬんじゃない。殺されようとしてるんだ。社会ではなく、「周りの一部による殺人」と言い換えてもいい。あなたの場合は、一部の人間が、あなたの心を殺そうとしてるだけだ。 あなたは今、他人に自分自身を殺させようとしている。あなたは彼らに自分を殺す許可を与えようとしている。自分の命をコントロールする許可を、みすみすくだらない連中に与えようとしてる。自分で相手に自分をコントロールさせようとしてるんだよ。 僕はいつも同じことを言う。他人に大切な自分を絶対に殺させるな。これだけだ。心ない人間に、自分自身をコントロールさせるな。 あなた自身が許可を与えなければ、自分を渦巻く環境は、あなたを殺すことができない。その環境は、あなた自身をコントロールすることなどできはしない。コントロールするのは、いつだって自分自身だ。外部のやつらじゃない。 絶対に、どんなことがあっても絶対に、その許可を下らないやつらに与えるな。生きるんだ。今の時点で、どんなにつらくても、だ。 ぶっちゃけ、「自殺」という概念がいいのか悪いのか、僕には判断する力がない。この社会には、「悪いに決まってるだろ」という人が大半だと思うけど、突き詰めて考えていけば、それを「悪いこと」と定義できる人間なんて、歴代の哲学者、思想家の著書や論文を読んでみても、誰一人いない。ゼロだ。一応、政治思想や倫理学を学んで、カナダの大学院で思想系の修士号をとったけど、今のところ誰にもそんなことを理由づけできていない。「個人的に悲しいこと」と定義できる人は、僕も含めて、たくさんいるだろうけどね。 絶対的な答えがない以上、いくら僕が「人が自ら命を絶つのは絶対にダメだ」と言っても、聞き入れるのは難しいよね。そもそも理由が不確かなものを受け入れられるわけがない。僕 僕はいつも、自殺は言葉の概念ではなく、個別に焦点を当てて考えるべきだと思ってる。「ヒト」という生物が死んではいけない普遍的な理由なんてない。どこにもない。今まで、世界中でどれだけの哲学者、社会学者、宗教学者、教育者が論じてきて、誰も一つの絶対的な答えを出していない。今現在の段階で、誰も絶対的な答えをもってない。カント、ロールズ、サンデルといった、名だたる哲学者たちでもだ。 だけど、「自殺したい」と思う個々人「Aさん」は、確かに存在する。普遍的な「人間が死んではいけない理由」があるかどうかは別にして、「個人Aさんが死んではいけない理由」は、個々のケースを考えれば、あると思ってるよ。 今回、僕があなたのメールを読んで、思ったことがある。 あなたは、死んではいけない。なぜなら、究極的には死にたいわけじゃないからだ。理由を勘違いしたまま死んでいくのを、僕は黙って見ているわけにはいかない。 頭にくるかもしれないけど、誤解のないように繰り返すよ。あなたは、死にたいわけじゃない。断じて違う。だから、その行為を取る意義を、僕が認めることはできない。 「はあ?」って思うかもしれない。 「『死にたい』って、はっきり言ってるじゃん!」って思うかもしれない。 それでも、僕ははっきりと言うだろう。「あなたは死にたいわけではない」と。 そして、繰り返し言うだろう。 「あなたは、辛くて苦しいのを止めたいだけだ。それが目的であって、死ぬこと自体は手段にすぎない。目的を果たせれば、手段が死である必要などどこにもない」と。 あなたが望んでいるのは、自殺そのものではない。今の状況から抜け出すことだ。 「本気で死にたいって言っていない」ということではない。決してそうではない。あなたは悲痛なまでに本気だ。文章を読めば、強烈にそれが伝わってくる。 そうじゃなくて、死にたいというのは、僕には他の感情の言い換えに聞こえるということだ。「死にたい」という言葉を言わせている感情の正体は何なのか、そこを死ぬ前に僕と一緒に考えてほしいと思う。 まずは、自分に向けて使う表現を変えるんだ。 「死にたい」じゃない。「生きるのが辛くて耐えられない」と言うんだ。 死にたい? 何で?   辛いからだろ。 苦しいからだろ。…

人生の話

ジョージ・フレデリック・ワッツが描いた、視力を失った少女からのメッセージ

日本ではあまり有名ではないかもしれないけど、僕はこの絵が大好きだ。   via Wikipedia   これを描いたのは、19世紀イギリスの画家ジョージ・フレデリック・ワッツ。 視力を失った少女が、星の上に座り、たった一本だけ弦が残ったハープを手にしている絵。見えるものもなく、真っ暗な闇の中で、ボロボロのハープを手にした少女が、一人ぼっちで耳を傾けているのは、わずかに残った一本の弦の音。 ワッツは、この作品に『希望』という題を付けた。     その目には何も見えなくても、そばにあるものがボロボロになっても、たった一人になっても、この少女が耳を傾け続けたのは、希望という音色。たった一本残った弦で奏でる音色だった。     あまりに大きな困難で行き詰ったとき、僕はたまにこの絵を見る。ワッツがこの少女を通して聞いた希望の音に、僕自身も耳を傾け、自分には何が残されていて、どんな音を奏でられるのかを、立ち止まってもう一度考えてみる。 そして、自分にできる精一杯のことを、前向きに紡ぎ出すようにしている。   すべてのものが失われ、ボロボロになったあとでも、僕には希望が残されている。前向きに生きる希望が、次のステップを歩む希望が、僕には残されている。 たとえ一人になったとしても、たとえ暗闇の中にいたとしても、たとえ何も周りに残されていなくても、その音色だけには、いつまでも耳を傾けられる自分でいたい。

人生の話

16年ぶりの同級生に会って考えた、「生きる」ということ

「桑(僕)は、あのあと誰とも連絡取ってないでしょ。アメリカにいるって噂はあったけど、どうしてたの?」 「生きてたよ」 昔の同級生と16年振りに言葉を交わした。「ああ、俺がアメリカにいるって話は広まってたんだ」と思った。 「あのあと」とは、1998年10月10日のあとのこと。 その前々日、親友のIから電話があった。 卒業した高校の元担任Mから電話があった、と伝えられ、「俺が今から言うことを落ちついて聞いてくれ。頼むから落ち着いて聞いてほしい」と言われた瞬間、彼が次に何を言うのか僕にはわかった。 「Nが・・・死んだ。病院で亡くなって、明日、室蘭で葬儀がある」 心のどこかで予期していた。それでも、「そのとき」が来たときの衝撃は大きすぎた。震えが止まらなかった。直後になんと言ったかは覚えていない。 ただ、意識が遠のいていくほどの心拍数の乱れと、受話器を持てなくなるほどの震えだけは、鮮明に覚えている。 人生で唯一付き合った人間の死を「落ち着いて聞け」か。こんなのを落ち着いて聞けるやつなんて、それこそ、頭がどうかしてる。 「桑、聞いてるか?大丈夫か?」 「ああ。大丈夫かどうかは知らんけど、聞いてはいる」 彼は通夜や葬儀の日時を僕に伝え、二人で参列するアレンジを始めた。 「この間、兄貴ん家行ったときと同じ場所で待ち合わせしよう」   「……。いや、俺、行かないよ」 「は?どういうこと?葬式に行かないってこと?」 「行かないよ。何で俺が行くんだよ」 「おい!何考えてんだ!おまえが行かなくてどうすんだ!」  彼は突然怒り出した。彼女が白血病になってから別れを切り出されたとは言え、僕が彼女のことをどれだけ大切に思っていたか、彼に今まで打ち明けてきた悩みの数々を考えれば、怒られるのは当然のことだ。彼の怒りは、今になって、よくわかる。 「どうもなんねーよ!!行かなくても、どうにもならねーよ!!」 でも、この時の僕には、物事を判断する力も、先のことを考える余裕もなかった。その後も、あまりにしつこく葬式に連れ出そうとするIに、僕も混乱を押さえきれずに怒り出した。 「行かねえっつってんだろ!!行ったらどうなるんだ!?何が変わるんだ!?俺が行ったら生き返んのか!?生き返るんだったら何度だって行くよ!!でも、そうじゃねえだろーがよ!!人の気も知らないで『葬式に来い』なんて簡単に言うな!!!」と言い出し、お互いに声を荒げて、電話口で喧嘩になった。 ブチギレた彼は、「俺は明日、〇時に〜に車でおまえを迎えに行く!!待ってるからな!!絶対来い!!!」と怒鳴って、一方的に電話を切った。 電話を切ってしばらくは、「ふざけんな、あの野郎!」と思ってたけど、段々と色々な感情がごちゃごちゃになって、その後、僕は何時間も机に突っ伏して泣き続けた。 彼女の遺体を見るのが怖かったのか。 現実を認めたくなかったのか。 みんなの前で正気を保っていられる自信がなかったのか。 死んでから行っても遅いと思っていたのか。   とにかく、僕は行きたくなかった。   それから何をしていたかは記憶がない。仕事に行って、泣きながら店長に休みをもらったこと以外は、全く記憶にない。 気がついたら、夜が明けていた。     次の日、結局、僕はIとの待ち合わせ場所に行った。「人の気も知らないで」なんて言ってしまったけど、彼女の白血病が発覚してからの僕の葛藤や混乱を、彼は最もよく知っている人間だ。 待ち合わせ場所でお互いを見ると、二人とも恥ずかしそうに笑って手を振った。   「I、ごめん。昨日は俺が悪い」 「あんな桑は初めてだわ。おまえ、キレ過ぎだよ(笑)」 「おまえは人のこと言えないだろ…」 「ははは」 久しぶりに少しだけ笑って、僕の心が少し軽くなった。 あとは、二人ともいつもの調子で札幌から室蘭まで二時間のドライブ。途中で心の整理のために止まってもらったこと、車の故障があったことで、結局、二人で葬儀に少し遅刻して参列した。   そして、葬儀の最後に献花をするとき、二年間の闘病生活の末に、骨と皮になるまでやせ細った彼女の遺体を見た。棺の中で化粧をして横たわっていた彼女は、僕と付き合っていた頃とは別人のようだった。 何で、こいつが苦しまなきゃいけないんだ。何で、こいつが未来を奪われなきゃいけないんだ。こんなのは、おかしいだろ!なんでだよ! 答えのない問いを、誰が答えるわけでもない問いを、僕は心の中で繰り返した。 別れを切り出す前の彼女の気持ちを考えられなかった、大事なことを言葉にして伝えなかった自分が嫌になる。共通の友達だった彼女の幼なじみに、以前に泣きながら言われた言葉が突き刺さった。 彼女の幼馴染たちは、僕を責めなかった。それどころか、僕のことも気にかけてくれた。   だけど、悪いのは僕だ。情けなかったのは、誰でもない、僕自身だ。すぐに諦めてベストを尽くさなかったのは、紛れもない僕自身だ。そう考えたとき、喪失感以上に、罪悪感と後悔が胸を締め付けた。 このときのことは、今でも夢に出てくる。あまりに何度も夢に出てきたので、自分に都合のいいバージョンの夢で、実際の記憶を書き換えようとさえ思った。 高校の同級生が沢山いて、僕のことをコソコソ話してる人もいたけど、僕はその場の誰とも一言も口をきかずに、ご遺族以外の誰とも目を合わせないようにして、終わったらすぐに葬儀場を去った。…

人生の話

パンドラの箱に最後まで残っていた、たった一つのもの

ギリシャ神話の一つに、「パンドラの箱」の神話がある。現代では、「開けてはならないものを開けてしまった」という意味に使われるようになった、あのパンドラの箱だ。 訳の間違いによって、「箱」となっているが、もともとのギリシャ語では、「つぼ」という意味に近い言葉が使われている。 ギリシャ神話の中では、パンドラは、地球上の最初の女性だった。彼女は、美の神アフロディテによって美しさ、音楽の神アポロによって音楽、弁論の神エルメスによって弁証術など、多くのものを与えられており、「すべての贈り物、すべての能力を与えられた」という意味の「パンドラ」という名前を与えられていた。 ある日、全能の神ゼウスは、これから結婚するパンドラに、人と同じくらいのサイズの大きなつぼを与えて言った。 「これだけは、決して開けてはならないよ」 しかし、好奇心を抑えきれないパンドラは、のちにこのつぼのふたを開けてしまう。その瞬間、つぼの中からは、様々なものが外に勢いよく飛び出していった。 慌てたパンドラは、急いでつぼのふたを閉めるが、時すでに遅し。つぼの中のものは、一つのものを除いて、全て外に出て行ってしまった。 つぼの底にたった一つだけ残ったもの。 それが「希望」だった。 パンドラの箱の神話は、このようにその物語を閉じる。 なぜ、このような結末だったのか。それは誰にもわからない。 全てのものが出て行ったパンドラの箱の奥に、たった一つ残ったもの、それが希望だった。このギリシャの有名な神話は、そのような結末をもって、後世に語り伝えられていく。   希望。   多くのものを人生で失っても、これだけは、まだつぼの底にひっそりと残っている。 命がある限り、何を失ったとしても、希望だけはこの手に残っている。

人生の話

自殺した幼なじみと誰かを許すということ

人が夜明けのときを知るのは   長い間、ずっと自分の心の中で響いているラビの物語がある。ラビとは、賢者として認められ、神の知恵を伝えるユダヤの教師のことだ。   あるとき、ラビを前に、一人の弟子が質問をした。 「先生、人は、どのようにして、夜明けがやってきたときを、知ることができるでしょうか?」   ラビは、やさしく微笑んで、逆にその弟子に質問を返した。 「あなたは、どう思う?」   その弟子は、少し考えて言った。 「新しい夜明けが来たのを知るのは、夜明けが近くなって、鶏が鳴いたときでしょうか?」   「いいや、そうではない」 ーラビは、答えた。   「それでは、」 ー弟子は続けた。   「真っ暗だった空に、周りの木々のシルエットが、ぼんやりと浮かび上がってきたときでしょうか?」   ラビは、穏やかに答えた。 「いいや、それも違う」   「夜が終わり、新しい朝が来たことを知るのは」 -ラビは、続けた。   「許せないと思った人々の顔を見て、その人が、あなたの愛する兄弟姉妹だと分かったときだ。その日が来るまで、外はいつまでも夜のままだ」   ヨナと敵国アッシリア   これから紹介するのは、西洋社会ではよく知られているヨナの話。聖書の中に書かれている物語だ。 ヨナは祖国イスラエルを愛し、敵の大国アッシリアを憎む、ごく一般的な男。 あるとき、敵国アッシリアの首都ニネヴェに行って、「ニネヴェの人々が犯す悪の数々のために、40日後にニネヴェは神に滅ぼされる」という予言を伝えるよう、ヨナは神から命令される。 しかし、アッシリアに行くのが怖くなり、ヨナは船に乗って、ニネヴェとは反対の方向に逃げ出してしまう。 そんなヨナを見て、神はヨナの乗った船を嵐に遭遇させる。そして、ヨナが神の命令から逃げたことを知った船乗りたちは、ヨナのせいで船が嵐に巻き込まれたのと思い、嵐を沈めるために、彼の手足をつかんで海に投げ込んでしまった。 ヨナは、海で大きな魚に飲み込まれ、3日3晩、魚の腹の中で過ごすことになった。しかし、結局、海岸に吐き出されて、一命を取り留める。 そして、「やっぱ、神の命令からは逃げられねえ・・・」と思ったヨナは、しかたなくニネヴェに行って、恐る恐る神の言葉を告げる。 すると、意外なことに、ニネヴェの人々は、すぐに悔い改め、神に真摯に向き合い始めた。ニネヴェの指導者は人々に悔い改めを呼びかけ、人々がそれを忠実に実行したため、神はニネヴェの破壊を考え直すのだった。 しかし、ヨナは、1度滅ぼすと言ったのに、それを中止し、祖国イスラエルの敵であるニネヴェの人々を許した神の寛大さに怒りだしてしまう。  当時のアッシリアは、軍事的にも経済的にも、ヨナの祖国イスラエルとは比べものにならない大国で、アッシリアの強大な力は、イスラエルを力で圧迫していた。実際にアッシリアは、すでにこのとき、幾つかの戦いでイスラエルを破っている。 イスラエルの人々にとって、アッシリアは、決して愛すべき隣国ではなかった。 しかし、神はイスラエルだけの神ではなく、異国の人々の神でもあった。その神は、異国のニネヴェの人々が心を入れ変えたとき、両手を広げて受け入れた。 不満げな気持ちを抱くヨナに、神はこう語りかける。 「ヨナ、あなたは自分が作ってもいない、育ててもいないトウゴマの葉さえ惜しむのに、どうして、創造主のわたしが愛するニネヴェの人々を惜しまずにはいられようか?」   「いやいやいや、おかしいだろ。だったら、最初から『滅ぼす』なんて言わなければいい」 そう思う人もいるかもしれない。でも、これは史実ではなく、意味を読み取る物語だ。この物語のテーマは、このような、一見、突拍子もない物語を通して、「一度言ったことを考え直す神」、「イスラエルだけでなく、異国の人々も愛される神」を示すこと。古代の人々が重きを置かれているのは、話の流れの辻褄ではなくて、物語の意味の方だ。 当時なかなか描かれることがなかった、自分の言葉を考え直す神のイメージや異国の人々の神のイメージ。当時、そのような神を受け入れられない人々は、イスラエルにもいた。自分のイメージと違う神に怒りをぶつけたのが、当時の人々の気持ちを物語の中で代弁するヨナだった。 ヨナは、敵国の首都ニネヴェの人々に、否定的な思いを抱いていた。神がいくら自分の敵を愛していても、自分たちを圧迫し、自分たちを攻撃し、自分たちを苦しめる、このアッシリアを、ヨナは許すことができなかった。 ヨナの暗い夜は、いつまでも明けないままだった。   許すことの難しさ   「許すということは、何と素晴らしいことか、と思う。しかし、そう思えるのは、自分自身の前に、絶対に許せない何かが立ちはだかるまでだ」…

人生の話

与えても与えても減らない不思議な小麦粉〜ユダヤの言い伝え

ユダヤ地方に昔から伝わっているお話の中に、以下のようなものがある。 あるところに、小麦をひいて粉にする仕事を営んでいる二人の兄弟がいました。兄弟のうち、兄は結婚し、複数の子供を授かっていましたが、弟は独身で、子供もいませんでした。 仕事上、二人は平等な立場であり、仕事が終わった時には、挽きあがった小麦粉を二人で平等に分け合って、自分の取り分を家に持ち帰っていました。 しかし、そんなある日、弟は考えました。「僕は兄貴と違って、結婚もしていないし、養わなければならない家族もない。これは不公平だ。兄貴は、僕よりも沢山分け前を取るべきだ」 それからというもの、弟は、みんなが寝静まる闇夜の中、お兄さんの倉に、自分の分の小麦粉を少し持って行くようになりました。お兄さんの遠慮深い性格を考えて、お兄さんには、決して気がつかれないように。 さて、弟がそんなことを考えていた頃、お兄さんも、家で考えていました。「僕には家族があって、妻も子供もいて満たされている。でも、弟は、年老いたときに、誰も世話をしてくれる人がいない。これは不公平だ。弟は、僕よりも沢山分け前を取るべきだ」 そして、お兄さんは、妻に相談したあと、みんなが寝静まるのを待って、自分の取り分を少し掴んで、弟の倉に持って行きました。弟の遠慮深い性格を考えて、弟には、決して気がつかれないように。  次の朝、二人の倉にある小麦粉は、一向に減っていません。お互いに、相手に与えた分、相手から与えられているからです。 与えても与えても減らない小麦粉。 二人は、不思議な力を前に、神に感謝の祈りを捧げます。そして、お互いのしていることを知らず、これを毎日続けました。 しかし、そんなある夜、二人の兄弟は、お互いの取り分を相手の家に持っていこうと歩いていたとき、道の途中でバッタリと鉢合わせしてしまいます。 はじめは驚いた二人でしたが、お互いに事情を説明して、何が起きているのかを理解したとき、二人は、お互いを抱きしめて、相手の思いやりに、ただ涙を流しました。いつまでも、お互いのやさしい心を思って、涙を流して抱き合いました。   ユダヤの言い伝えによると、この夜、抱き合う兄弟に、神はこう言ったという。「わたしは、ここに祝福の家を建てる。あなたたちは、その祝福の源となるだろう」 人はこの兄弟のように生きるように招かれているのかもしれない。人と人とが交わるその場所に、祝福の家が建てられるように、与えられたいのちを用いるように招かれているのかもしれない。 この世界には、色々な人がいる。関わる人たちに悪意を抱くことなく、他人の善意を恣意的に利用することなく、僕たちの誰もがこの兄弟のように生きられるように願っている。

人生の話

たとえほぼ全てを失っても、決して失うことのないものが一つある

1997年、一人の偉大な精神科医が人生の幕を閉じた。 その人の名前は、ビクトール・フランクル。 フランクルは、オーストリアのウィーン大学の精神医学科に勤務していた著名な精神科医であり、フランクルが亡くなったというニュースは、当時、欧米だけでなく、日本のニュースにも取り上げられていた。 世界的ベストセラーになった、彼の著書『夜と霧』の中には、彼の第二次世界大戦のときの経験が記されている。 第二次世界大戦中の1942年、ユダヤ人であった彼は、のちに殺害される彼の妻や両親と共に、ナチスの収容所に入れられてしまう。 はじめは他の囚人たちと一緒の肉体労働をしていたフランクル。しかし、医学の学位を保持していた彼は、のちに収容所で優遇され、ナチスのために医療の仕事をさせられることになる。 2年後、意に反してアウシュビッツに移されたフランクルは、残虐で恐ろしい光景を嫌というほど、その場で目にしていった。 次々に死んでいく人の群れ。厳しい環境での生活。 アウシュビッツに収容された人々が、ショックと苦しみで、無気力になり、最後は何の希望も持てなくなっていく。フランクルの目に映ったのは、そんな絶望に満ちた景色だった。 疲れとあきらめが襲い掛かり、目の前に横たわる自分の人生が、悪夢にしか見えなくなってくる。人々が気が狂ったようになっていく。当時の様子を、フランクルは、そのように書き残している。 しかし、多くの人々が狂いそうになる、そんな状況の中、深い感動を覚えさせられたある人々のことを、フランクルは同時に著書に書き記している。 心身の自由を奪われ、家族を奪われ、日常生活を奪われる、そんな極限の状態にありながらも、他の人々を笑顔と優しい言葉で励まし続け、自分の最後のパンのひとかけらを、同じように空腹に震える人々に分け与え続けた、そんな人々の姿が脳裏に焼きついて離れない。確かに、数は少なかったかもしれない。しかし、そのような人々がアウシュビッツに実際にいた、ということは、私に一つのことを証明してくれているように思う。それは、たとえ全てのものが奪い取られても、人間の最後の自由は、誰にも奪い取ることができない、ということだ。強制収容所のような過酷な状況の下にあっても、今この瞬間の自分の態度を自分で決められる、という最後の自由は、いついかなるときにも、取り去られることはない – Frankl, Viktor., “Man’s Search for Meaning” 僕たちは、生きている間に、多くのものを失っていく。僕たちが持っているものは、いつか必ずなくなっていく。物理的な所有物だけではない。僕たちが享受している健康も体力も脳の働きも、これから先、確実に失われていく。 でも、たとえそれらの全てが取り上げられても、人には一つだけ取り上げられないものがある。そう、フランクルは言った。 それが、人間の最後の自由だ。 「どんな状況の下でも今の自分の態度を自分が決めるという自由、それだけは誰にも奪うことができない」 ーそうフランクルは語った。 他人に何をされても、何を言われても、どんな状況で育っても、僕たちには、今現在の自分のあり方を決められる自由がある。隣人に、友人に、家族に、見知らぬ人に、どんなに不当な痛みや悲しみを与えられても、どんな卑劣で冷淡な扱いを受けても、裏切られても、恨みを抱かず許したり、ただ前を向いて静かに自分の道を歩いたりする自由を、僕たちは確かに持っている。 人間とは、一体、何か。わたしたちは、その歴史において、その問いを繰り返してきた。わたしであれば、こう答えるであろう。人間とは、自分があるべき姿を絶えず決定していく存在である – Frankl, Viktor., “Man’s Search for Meaning” 人間とは、フランクルの言う通り、そもそもが自分があるべき姿を自分で決めていく存在だ。確かに人間とは、残酷なアウシュビッツのガス室を発明した存在かもしれない。ときには卑劣で、残虐で、冷淡な存在なのかもしれない。 でも、それと同時に、人間とは、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら、自分と同じ人間によって発明された悲惨な部屋へと、他人を励ましながら、尊厳を失わずに顔を上げて入っていくことができる存在でもある。自分自身が、たとえ極限の状態にあっても、他人を励まし、空腹に震える人に、自分の最後のパンのひとかけらを分け与えることのできる存在でもある。 僕たちは、一方では、悪意をもって、妬みの心を持って、その心の内に自らのアウシュビッツを作ることができる。人を卑劣な方法で不当に苦しめ、傷つける場所を、自分の心の中に作ることもできる。 でも、その一方で、僕たちは、自分が誰であるのかを問いかけ、いかなる「いのち」を生きていくのかを問いかけ、歪んだ思いにコントロールされない選択を下すこともできる。これから何が奪われようと、これから何が取り去られようと、誰に何をされようと、僕たちには、今現在の自分の態度を自分で決める自由を、確かに持っている。 自分の人生の主人公は自分だ。何をするのかを決定するのは自分だ。決して、周りの環境や他人ではない。 人の弱さは容易に心の中に残酷なアウシュビッツを作っていく。誰かに卑劣な行いをされることもあるかもしれない。大きな苦しみが人生を襲うこともあるかもしれない。 でも、たとえそんな状況に放り込まれたとしても、「状況にコントロールされずに自分の態度を自分で決める自由を、僕たち一人一人は確かに持っている」ということを、僕はいつも心に覚えておきたい。 他人の冷酷さや現実の厳しさに、自分自身がコントロールされないように。

人生の話

悲惨な状況に置かれたときに何をすべきかを教えてくれる音楽家

1992年、サラエヴォ包囲の真っ只中。 独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォに続いた砲撃の回数は、一日平均300回以上にもおよび、この間、負傷者は50,000人を超え、12,000人以上が亡くなった。東欧の歴史豊かなこの町には、多くの遺体で腐臭が漂い、首都の道という道が血で染まった、と言われている。 サラエヴォの音楽一家に育ったヴェドラン・スマイロヴィッチは、このときのサラエヴォを「地獄の首都」と呼んでいる。 スマイロビッチは、幼いころからチェロを習い、サラエヴォ・オペラ・シアターの主席チェリストにまでなった有名な演奏家だった。しかし、紛争が始まるとすぐに、このオペラ・シアターは破壊され、彼の愛する生まれ故郷サラエヴォは、一瞬にして「地獄の首都」へと変わっていった。 爆撃の雨と血まみれの死体が溢れ、地獄絵図のようなサラエヴォ。罪のない市民の血が流される街。愛する人たちを失い、泣き叫ぶ者に溢れる街。地獄絵図のような光景に、気が狂い始める者、悲惨な現実にただ絶望する者で、サラエヴォは溢れかえった。   市民が無残に殺されていた、そんなある日のこと。 スマイロビッチは、ただ絶望するしかなかった者たちと死体の数々に囲まれた広場に歩み出て、静かにチェロを取り出し、それを一心不乱に弾き始めた。一日に300発以上の爆弾の雨が降り注ぐサラエヴォで、オペラ・シアターで着ていた黒いスーツに白いネクタイを着込んで、たった一人、死と絶望の真ん中に座り、彼はチェロを引き続けた。 「誰にも弾くことのできない、奇跡の美しさだった」 耳にした者にそう言わしめたそのチェロの音は、すぐそばで亡くなった22人の命を記念して、22日間続いた。 その音は、先の望みもなく、振り絞る力の残っていなかった者たちの心に、いつまでも温かく、明るい希望の灯火となって響き続けたという。   「それがどれほど大きな助けになったか、あなたには想像できますか?」 サラエヴォ包囲を生き延びた人は言う。 あのときスマイロビッチのチェロの音を耳にした人にとっては、彼が奏でる音楽は、それほど大きな希望の響きであり、それほど大きな救いの響きだった。 豊かで平和な日常を送る僕たちも、レベルは違えども、悲惨で混沌とした環境に身を置かなければならないときがある。生きていると、理不尽なこと、冷酷な現実が襲いかかることも避けられない。 僕たちは、日常生活の中でも、何か悲惨なことが起きたとき、ただ泣き叫ぶことはできる。状況に文句や不満ばかりを言うこともできる。無気力にただ立ち尽くすことも、悲惨さを重ねる行為に加担することも簡単にできる。 でも僕は、どんな状況でもスマイロビッチのようでありたい。周りの環境や状況がたとえめちゃくちゃでも、自分がいるコミュニティーの中で、自分が持っているものを活かして、周りに明るい希望の音を響かせられる人でいたい。 いざというときに、チェロを取り出して美しい音楽を奏でることができるように、いつでも自分の能力を磨いていたい。

人生の話

あなたの目に隣家の洗濯物が汚れて見える理由

ある土地に一組の夫婦が新しく引っ越してきた。ビジネスパーソンと主婦の新婚カップルだった。 ある日の早朝、この夫婦が二人で朝食を食べていて、妻がふと窓の外を見たとき、干している隣家の洗濯物が目に入ってきた。 干されているその洗濯物が薄汚れているのに気付いた妻は、夫に言った。 「あの奥さんは、洗濯の仕方も知らない人なのね。衣類は汚いままなのに。ちゃんと洗剤使ってるのかしら」   この妻は、あくる朝も、その次の朝も、隣の家の洗濯物を見て、毎日毎日、ブツブツと同じことを夫に言った。 「あの奥さん、家族にあんな汚いのを着せてるのかしら。信じられない」 数週間が経ったある朝、同じように窓の外をのぞいて隣家の洗濯物を見た妻は、その洗濯物が、すっきりと綺麗に美しくなっていることに気が付いた。 彼女は驚いて、夫に言った。 「あなた、見て。隣の奥さん、やっと洗濯の仕方を覚えたみたいよ。何があったのかしらね」   夫は微笑んで、こう返した。 「いや。僕が早く起きて、この部屋の窓をきれいにしたんだよ」 汚れているのは、隣家の洗濯物ではない。自分の窓だ。でも、汚れた自分の窓に気が付かない妻には、窓の向こうの洗濯物自体が汚れているようにしか見えなかった。    僕たちの周りの問題も、往々にして同じだ。たまに嬉々として他人の悪口を広める人たちに出会うけど、実際に汚れているのは、本当にその対象なのか、僕はいつも疑問に思う。汚れているのは、僕たちが下衆の勘繰りをして、悪質なゴシップや陰口の対象にするものではなく、他でもない自分自身の心のように思える。 汚れた心を通して外の現象を見ていれば、どんなものだって汚れて見える。その口から出てくる言葉は、悪質なゴシップ、陰口にまみれて汚れていく。汚れたレンズを通して解釈されるものは、そのまま汚れて出てきてしまう。  イギリスの詩人ジョージ・バーナード・ショウは言った。 「いつでも自分を磨いておけ。あなたは世界を見るための窓なのだ」 世界を見る窓は自分しかない。自分を磨いていなければ、曇った窓を通してしか、周りを見ることはできない。歪んだ思いに心が支配されていれば、歪んだ世界しか見えてこない。 一度しかない人生、僕は薄汚れた窓を通して周りを見ながら、人生の終わりを迎えたくない。そして、できれば他の人たちにも、そんな世界を見ながら、人生の幕を閉じてほしくないと思う。

人生の話

帰る方角が分からなくなる理由

何年か前、羊の生態を写したドキュメントを観た。その短い映像の中で、とても印象に残った場面がある。 一匹の羊が草を食べていて、迷子になる場面だ。 よほどお腹が空いていたのかもしれない。群れの中の一匹の羊が、目の前の草を休みなくムシャムシャと食べ続ける。しばらくの間、この羊は、夢中で目の前の草を次々に追いかけていく。そして、目の前を草をひたすら食べ続けていた羊は、あるとき、ふと顔をあげ、周りを見渡し始める。 周りを見渡すと、この羊は、いつのまにか自分が一人ぼっちであることに気が付いていく。思わず不安そうにウロウロとするこの羊。おいしそうな目の前の草を夢中で食べ続けているうちに、この羊は群れから迷い出てしまい、ついには帰る方角もわからなくなってしまっていた。   人は、誰もが目の前の草を追い求めて生きている。世界には様々な年代や立場の人がいるのだから、「目の前の草」と言われても、思い浮かべることも様々だろう。経済的安定かもしれないし、キャリアかもしれない。物欲かもしれないし、名誉欲かもしれない。プライドの充足かもしれないし、コンプレックスの克服かもしれない。内実は様々だが、僕たちの人生には、それぞれ、帰る道を見えなくさせる草がある。 追いかけること自体は、何の問題もない。でも、周りを見渡すこともなく、それを夢中で追い求めていると、いつしか私たちは自分が立っている場所がわからなくなる。 そして、戻るべき道を見失う。 僕は、自分が知らず知らずに追いかけているものに、常に意識的になりたい。そして、様々なことが起こり、様々な感情がわき起こる人生で、自分自身がどこに向かっているのかを、絶えず意識して生きていきたい。

人生の話

あなたが誰であるのかを決めるのは

尊敬するTくんへのメッセージ “Somebody’s opinion of you doesn’t have to be your reality.”– Les Brown 北米のある先住民の部族は、次の物語を残している。あるところに、チェンジリングイーグルというワシが卵を産んだ。しかし、産み落とされたその卵は、風に吹かれて飛んでいき、ニワトリの巣の中に紛れ込んでしまい、このワシの卵は、やがてニワトリの巣の中で孵化してしまった。そして、生まれたワシは、周りと比べて、自分の姿かたちを少し特殊だと思いながらも、自分がニワトリだと思い込んで、ニワトリたちと一緒に育っていく。あるとき、このワシは、一緒に育ったニワトリの仲間たちと野原でくつろぎにいき、大空を飛びまわる一羽の立派な鳥を目にして、周りの仲間に尋ねた。「ねえ、みんな。あれは、一体、何なんだい?」「ああ、あれは、チェンジリングイーグルというワシだ。空の王様だよ」-一羽のニワトリが答えた。「へえ。すごいなあ。俺もあんなふうに飛べたらなあ」「はは。俺やおまえが、あんな風になりたい、なんて思っても無駄だよ。俺たちは、ニワトリなんだからね」そのように言われたそのワシは、「無駄だ」と言われたことはせず、言われた通りにした。そして、いつまでも自分がそのチェンジリングイーグルであることに気がつかず、自分をニワトリだと思い込んで、やがて年老いて死んでいった。あなたが誰であるかを決めるのは、周りの人間じゃない。他人の声で、自分を見失うな。たとえ、周りの人間が、適当にあなたのことを決めつけようが、あなたの可能性を否定しようが、いい加減な噂を広めようが、その人たちには、あなたが誰であるかを決めることはできない。他人がどう思うか、他人がどう見るか、他人がどう評価するかを怖れてばかりいたら、あなたは、いつまでたっても、大切な人生を周りに振り回され続ける。いつまでたっても、周りに自分の人生をコントロールされ続ける。たった一度の人生、他人に自分を決められて生きることになるんだ。あなたが誰であるのかを決めるのは他人じゃない。 絶対に自分を見失うな。