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人生の話

どんなにつらいときでも、たとえ死にたいときでも【自殺を考えているTくんへの手紙】

 Tくんへ “Just to be is holy; just to live is a blessing.” – Abraham Joshua Heschel *2011年に書いたものです。   おっす。メッセージをありがとう。すごく嬉しかったよ。バンクーバー時代のブログから見てくれてたんだな。よく、ここにたどり着いたねー。理由があって、あえてリンクしてなかったのに(笑)。ちょっとビックリしたけど、ほんと嬉しかったよ。まさか、あのときの人だったとはね。「長い間の知り合いみたい」ってのも、確かにその通りだね。俺も、そう思うもん。繰り返すけど、連絡を本当にありがとう。ブログ書いててよかったって、久しぶりに思ったよ。 俺は、その分の感謝を込めて、友情を込めて、今回は、かなりきついことを言わせてもらうよ。他の人には言わないようなことも遠慮なく言うんで、覚悟しといて。笑   あまりに辛い状況にいるおまえを見て、俺には何と言っていいか、迷ってしまう。俺には、おまえの苦しみの深さは分からない。おまえの痛みは、周りの人間が単純化して分かった気になれるような深さじゃないだろうからな。その深さを想像するだけで涙が滲んでくる。「何で、おまえみたいなやつが苦しまなきゃいけねえんだよ」って思うし、その理不尽さに頭にくるわ。今まで何も知らなくて、申し訳ないとさえ思う。 でも、これだけは言わせてくれ。 死ぬのはダメだ。どんなことがあっても、自分の手で命を絶つことだけはするな。 全く知らない人、俺に連絡してない人が死ぬのは、俺は別に止めはしない。だけど、おまえは別だ。 多少の悪さをしようと、多少情けないことをしようとな、俺に助けを求めた以上、何を破っても、それだけは守ってくれ。   俺は、戦いで苦境に陥ったときに発したと言われるナポレオンの言葉が好きだ。   「状況だと?何が状況だ。俺が状況を作るんだ」(ナポレオン)   ほんとに、そうだと思うよ。状況なんて、受け身で待つもんじゃない。おまえや俺が、自分の手で作り出していくんだよ。どんな絶望的な状態にいたとしても、どんなに出口が見えなくなっていても、それでも何とか、俺やおまえが、自分の手や足で切り開いていくもんなんだよ。 確かに、最悪の状況って思うかもしれない。確かに、人生を投げ出したくなる状況かもしれない。しかも、こんな状況に追い込まれたのは、おまえの責任じゃないもんな。 人は、ときに嫉妬や悪意に満ちていて、自分のためなら他人の人生を踏みにじることもできるもの。ときには、他人の歪んだ心が原因で、自分中心のその心が原因で、おまえみたいな誠実で優しいやつが犠牲になってしまう。本当に嫌なもんだと思うよ。理不尽だって思うよ。悲しいし、情けないし、心からの怒りさえ感じる。「自分のせいじゃないのに」ってのは、本当にその通りだと思う。   でもな、きついだろうけど、今現在、そこから抜け出そうとしない、それは、おまえのせいなんだ。自分で状況を作り出そうとしないのは、おまえの責任なんだよ。今、立ち上がろうとしないのは、今、前を向こうとしないのは、おまえの責任になるんだよ。   アウシュビッツから生還したヴィクトル・フランクルという精神科医は、「人はどんな悲惨な環境にいても、自分の態度を自分で決める自由を奪われることはない」と言った。そして、それが人間が持ちうる「最後の自由」だと、人々に訴えかけた。俺は、この10年、しょっちゅうこのフランクルの言葉を思い起こして生きてきたよ。 俺たちは、たとえ体の自由を奪われても、たとえ持っているものを奪われたとしても、自分の態度を自分で決めることのできる自由だけは、絶対に誰にも奪われることがない。たとえ、考えられうる全てのものを奪い取られたとしても、全てのものを失ったとしても、どんなに最悪な状況にいようとも、俺たちの態度は、いつだって俺たち自身が自由に決められるんだ。 たとえ悲惨な環境でも、誰かに微笑むことのできる自由はある。悪意に攻撃されている時でも、相手に愛を分け与えることのできる自由だってある。おまえも俺も、まだその自由を持ってるんだよ。 たとえ何が起ころうと、その自由だけは、決して奪われない。まだまだ、大切な人のために立ち上がることのできる自由を、状況を切り開くことのできる自由を、おまえは、今、その手に持ってるんだよ。それを、どんな奴にも奪うことのできないその自由を、おまえが自ら手放すな。   バンクーバーのブログを読んでたなら、「あなたも同じですよね」って思われるかもしれない。だいぶ前にも、ちょっとそんなこと書き込んでいたもんな。あの書き込み、きつかったぞ(笑)。 確かに、俺は病気だった彼女を19歳で亡くした後、悪いことばかりが重なってしまい、気が狂いそうになるのを抑えることで精一杯で、自分も周りもめちゃくちゃにしてしまった。発狂しそうな中で、俺は自分の態度を決めることに何度も何度も失敗した。苦しい思い出ばかりの札幌から飛び出して、東京に行ったあとも、大切な人たちに迷惑をかけ続けた。 確かに、俺だって立ち直ることができずに、人に心配をかけて、いつまでも心の奥で塞ぎ込んでた。 もしかしたら、今でもそうなのかもしれない。情けないね。かっこ悪いかもしれないね。あれから13年。それでも、この間室蘭に行ったとき、どうしても涙が出てきた。   でも、あれから、ちょっとずつ、自分が変わっていった気はしてるんだよ。少なくとも、何年も経って、心から笑うことができるようになった。人を愛することができるようになった。自分の力不足に対する罪悪感と後悔で、毎日毎日泣いてばかりいた俺が、だよ。他人には小さく見えるかもしれないけど、俺には大きな変化なんだ。 それに何より、俺は今も生きてるよ。人を愛して、人に愛されて、あのときは考えられなかった人生を、想像もつかなかった人生を、今ここで生きてるんだよ。俺は死ななかったよ。大きな痛みや苦しみや悲しみをこの背中に背負いながら、それでも精一杯、今を生きてるよ。 最初は、失敗してもいいんだよ。立ち上がれなくても構わない。いきなり何でもうまくなんてできやしない。だから、ちょっとくらい絶望したって、怒ったって、泣いたって、構わないんだよ。 ただ、お前のケースでは、そこから未来を生きることをあきらめちゃダメだ。自分を信じることをやめちゃダメだ。たとえ、自分の夢をあきらめても、他人を信じることをあきらめても、自分自身を信じることだけは、絶対にあきらめちゃダメなんだよ。 そして、悲しみや怒りや苦しみにコントロールされるんじゃなくて、それらを俺たちがコントロールする強さを覚えなきゃダメなんだよ。 一気に全部やれとは言わない。完璧にやれとも言わない。だけど、もしも俺たちが自分らしくいたいのであれば、それらのことを、少しずつ、でも確実に、しなくてはいけないんだ。   俺は、個人的に、「いのち」を与えられた者は、その与えられたものに応える責任があると思ってる。俺たちは無意味に生まれたわけではないし、無意味に「いのち」を吹き込まれたわけでもない。俺は、個人的にそう信じてる。それぞれの人間が持つ「世界観」ってやつだ。 きっと、おまえは、この感覚を共有できないだろうと思う。偶然、俺たちは生まれて、死ぬ理由もないから、ただ意味もなく人生を生きるんだと、おまえは思ってる。…