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メッセージ

自殺を考えている人は、「死にたい=苦痛を止めたい」と言い換えをしてほしい。死は目的ではなく、手段にすぎない。

ときどき、「生きているのが嫌になった」、「人生の幕を閉じたいです」という人からメールをもらう。カナダで働いていた2007年くらいから、ちらほらと、そのようなメールを受け取るようになった。あの頃は、短い海外生活ブログを、ほぼ毎日更新していた。アクセス数も伸びたけど、バンクーバーからカナダの東部に引っ越すときに、ある理由で全てを閉じた。 トロントでまた新しくブログを始め、そこでも僕が書く内容に呼応して、精神的にギリギリの状態にいる人たちからのメールが来るようになった。バンクーバー時代のブログの読者が、検索を重ねて、僕を探し出してくれたケースもあった。 カナダでの僕の仕事の大部分が、苦しんでいる人たちに寄り添うこと、要望があれば問題の解決に乗り出すことだった。知らない人たちにも名前や顔が知られるようになり、ものすごい数の電話やメールを受け取り、僕の心身が限界にきたことも何度かある。全く異文化の中にいながら、あのような責任ある立場で、普通の仕事では考えられないプレッシャーを背負いながら生きる20代は、良くも悪くも、日本人ではそうはいないだろうと思う。 正直、今の仕事は、当時ほどの莫大なプレッシャーはない。自分の両親や祖父母のような年代の方々から「先生」と呼ばれ、知らない人たちにまで顔が知られる生き方は、もうしていない。ベンツで迎えが来て、カナダの高級マンションでワインを飲みながらミーティングという「これって教会がするようなことですか?」と思わず言ってしまうような生活もしていない。町を歩いていて、見覚えのない人から「あら桑原先生!」、「Hi. You are the one from Vancouver, right?」などと声をかけられて、焦ることもない。 「あんなに頑張ってたのにどうして?」、「なぜ日本に帰ったんですか?あなたのような人が組織を変えていくんですよ」、「もったいない。あなたがいないと何も変わらない。カナダに戻ったらどうですか?」などと言われても、これから再び同じことをすることはないだろう。結局、組織内の醜い争いや足の引っ張り合いに巻き込まれ、自分の使命の実行は妨げられるのが目に見えているからだ。 今までで最も素晴らしい人たちに出会った一方で、今までで最も卑劣で歪んだ人間関係の中で生きたのが、僕のバンクーバー時代。日本の教会を追い出された牧師夫妻、バンクーバーの教会を追い出された牧師夫妻、日本から来た詐欺師、不倫関係を迫って断ると嫌がらせをしてきた関西の中年女性、気に入らない人たちをことごとくウソで貶める不動産屋など、「実話を映画かドラマにしたら面白いんじゃないか」というレベルの人たちと関わった。当時は、「人間とはここまで高められるんだ。こんな人たちから学べるとは何て運がいいのか」という心が高揚したり、人の深い親切心に涙したりする経験を何度もする一方で、「人間性とは、ここまで腐ることができるのか」ということにも何度も直面した。 僕は嘘や虚飾や暴力が当たり前になっている人間関係の中で生きることは、もう二度としたくない。そんな環境に大切な人生の資源を割くより、他の方法で自分の使命を実行したほうがいい。基本的に僕は決めたことに柔軟なほうだと思うけど、こればかりは文字どおり死の一歩手前まで追い詰められて決めたことであり、これから心変わりすることはない。 ただ、立場は変わっても、当時から魂を削って実行していたことは、これからも続けたいと思っている。自分がしていたことは、ただの仕事ではなく、「人生」という大きな存在から自分に与えられた使命だと思っているからだ。 そのようなことの一つが、他人の心の歪みの犠牲になっている人たちと、少しだけ共に歩く時間を持つこと。僕も仕事をして生活していかなきゃいけないので、あまり多くの時間は避けないけど、深刻な内容のメールをもらったら、仕事に関係がなくても、確実に返すようにしている。個人情報がわかる部分は少し書き換えをしているけど、以下のメールも、そのような状況で書いたものの一つ。僕が送った2014年最後のメールだ。 メールをどうもありがとう。そして、応援メッセージもありがとね。今はすごく体力的にキツい時期だから、特に勇気づけられたよ。大変な中、僕のことまで気遣ってくれてありがとう。 本当に、本当に、色々なことがあったんだね。メールには書き切れないくらい、苦しいことが、叫びたいくらい辛いことが、山のようにあったんだろうね。そんな中で、僕のことを対話相手に選んでくれたこと、僕は嬉しく思う。 僕は、卑劣なことをする人たちの精神的幼稚さの犠牲になる人を、少しでも減らしたいと思ってる。卑劣なことをする人間がいれば、当然、その犠牲になる人もいる。カナダに住んでいた頃、一部の人たちが、人間として、とても看過できないことをするのを、僕は見てきた。犠牲者の一人は帰国を余儀なくされ、ある人は「二度とあんなところには行きたくない」と行って僕に涙を見せ、またある人は嘘の噂話をばらまかれて、人生の変更を余儀なくされた。 僕は、こういった犠牲者を減らしたい。少なくとも、僕の周りではなくしたい、と思ってる。だから、いじめや集団ハラスメントなどの被害に遭っている人には、なるべく時間を裂くようにしている。もともと、教会でそういう活動をしてたから、その流れで、帰国後も、ずっとこれだけは続けてるんだ。 今回のように、いつか誰かが僕の書いたものを読んで、何かを感じてくれるかもしれない。「やっぱ、死ぬのはやめとこう」と、思い直すかもしれない。以前に、一人の親切な人が僕が書いたものを読んで、「私もとにかく生きてみます」と言って、自殺を思いとどまってくれたことがあった。たった一人にでもそういった効果があるのなら、僕はこれからもここで発信していきたいと思ってる。誰のためでもなく、苦しんでいた昔の自分自身のために。 苦しんでいる人に「自殺は世間の迷惑」とまで言う人間がいるのは、悲しいことだと思う。迷惑がかかるなんて、そんなもの、百も承知だろうにね。そうやって言う人たちは、自殺する人を、どこまでのおバカさんだと思ってるんだろうな。迷惑も苦しみも分かった上で、それでも死を選ぶという選択なのに。 あなたの耐えられない苦痛に思いを馳せない人たちの言うことは、聞く必要がない。あなたの苦痛を見ようとしない人のことには、あなたの生死の問題に関しては、耳を傾ける必要はない。人は自分の思い込みで、事実そっちのけで言いたい放題のことを言う。何を言われても、他人の苦痛を無視する言動は、放っておけばいい。くだらない人間の言動に振り回されるのは、今すぐやめるんだ。 あなたは自分勝手ではない。断じて違う。多くの自殺は、実際は社会による殺人だ。状況が人を追い込んで、精神的な安静を奪う。周りの人間が作った状況が、あなたの心臓をえぐっていく。あなたは死ぬんじゃない。殺されようとしてるんだ。社会ではなく、「周りの一部による殺人」と言い換えてもいい。あなたの場合は、一部の人間が、あなたの心を殺そうとしてるだけだ。 あなたは今、他人に自分自身を殺させようとしている。あなたは彼らに自分を殺す許可を与えようとしている。自分の言動をコントロールする許可を、みすみすくだらない連中に与えようとしてる。自分で相手に自分をコントロールさせようとしてるんだよ。 僕はいつも同じことを言う。他人に大切な自分を絶対に殺させるな。これだけだ。心ない人間に、自分自身をコントロールさせるな。あなた自身が許可を与えなければ、自分を渦巻く環境は、あなたを殺すことができない。その環境は、あなた自身をコントロールすることなどできはしない。コントロールするのは、いつだって自分自身だ。外部のやつらじゃない。 絶対に、どんなことがあっても絶対に、その許可をやつらに与えるな。生きるんだ。今の時点で、どんなにつらくても、だ。 ぶっちゃけ、「自殺」という概念がいいのか悪いのか、僕には判断する力がない。この社会には、「悪いに決まってるだろ」という人が大半だと思うけど、突き詰めて考えていけば、それを「悪いこと」と定義できる人間なんて、歴代の哲学者、思想家の著書や論文を読んでみても、誰一人いない。一応、政治思想や倫理学を学んで、カナダの大学院で思想系の修士号をとったけど、今のところ、そんな断定ができる論文には、お目にかかったことがない。「個人的に悲しいこと」と定義できる人は、たくさんいるだろうけどね。 絶対的な答えがない以上、いくら僕が「人が自ら命を絶つのは絶対にダメだ」と言っても、聞き入れるのは難しいよね。だって、理由が不確かだから。僕にだって理由がわからない。 僕はいつも、自殺は言葉の概念ではなく、個別に焦点を当てて考えるべきだと思ってる。「人」が死んではいけない普遍的な理由なんてない。どこにもない。今まで、世界中でどれだけの哲学者、社会学者、宗教学者、教育者が論じてきて、誰も一つの絶対的な答えを出していない。今現在の段階で、誰も絶対的な答えをもってない。カント、ロールズ、サンデルといった、名だたる哲学者たちでもだ。 だけど、「自殺したい」と思う個々人「⚪️⚪️さん」は、確かに存在する。普遍的な「人間が死んではいけない理由」があるかどうかは別にして、「⚪️⚪️さんが死んではいけない理由」は、個々のケースを考えれば、あると思ってるよ。 今回、僕があなたのメールを読んで、思ったことがある。 あなたは、死んではいけない。なぜなら、究極的には死にたいわけじゃないからだ。理由を勘違いしたまま死んでいくのを、僕は黙って見ているわけにはいかない。 繰り返すよ。あなたは、死にたいわけじゃない。断じて違う。だから、その行為を取る意義を、僕が認めることはできない。 「はあ?」って思うかもしれない。 「『死にたい』って、はっきり言ってるじゃん!」って思うかもしれない。 それでも、僕ははっきりと言うだろう。「あなたは死にたいわけではない」と。 そして、繰り返し言うだろう。「あなたは、辛くて苦しいのを止めたいだけだ。それが目的であって、死ぬこと自体は手段にすぎない。目的を果たせれば、手段が死である必要などない」と。 あなたが望んでいるのは自殺そのものではない。自殺を望んだ状態への手段として考えているだけだ。 「本気で死にたいって言っていない」ということではない。決してそうではない。あなたは悲痛なまでに本気だ。文章を読めば、強烈にそれが伝わってくる。 そうじゃなくて、死にたいというのは、僕には他の感情の言い換えに聞こえるということだ。「死にたい」という言葉を言わせている感情の正体は何なのか、そこを死ぬ前に僕と一緒に考えてほしいと思う。 まずは、自分に向けて使う表現を変えるんだ。 「死にたい」じゃない。「生きるのが辛くて耐えられない」と言うんだ。 死にたい? 何で? 辛いからだろ。 苦しいからだろ。 あいつらがひどいことをして心が耐えられないからだろ。 じゃあ、本当に望むのは「死にたい」というよりも、「辛くて苦しいのを止めたい」ということじゃないのか。目標はそっちだろ。死というのは、単にそれらを実現させる手段に過ぎないだけで。 何度でも決めつけるけど、ここだけは許してほしい。 あなたは死にたいわけじゃない。痛みや苦しみを止めたいんだ。目的はこっちだ。最終的に実現したいのは、死じゃなくて、こっちなんだよ。 「死にたい」というのは、多くの場合、「痛みや苦しみを止めたい」を言い換えたものだ。堪え難い精神的虐待から、抜け出したいんだ。悲惨な環境から抜け出したいんだよ。 死はその手段として、あなたの頭にちらつくだけなんだ。 この精神的虐待がなければ、あなたは自殺しなくてもいい。理不尽な苦しみの毎日さえ去れば、あなたは死ぬことを選択しない。そうだろ。理不尽な苦しみがなければ、素敵な人たちに囲まれて、望んだ生活ができていれば、わざわざ死を選ばないだろ。 だったら、突き詰めると、究極的な目的として、死を選びたいわけじゃないんだよ。痛みや苦しみを止めたいだけなんだ。今の状況を変えたいだけなんだ。その手段として、「死」が脳を襲うだけなんだ。この場合の「死」は、あくまで手段にすぎないんだよ。決して目的ではないんだよ。…

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「一番苦しいときにどんな言葉をもらったかで、その後の人生が決まる」【信頼の力の体験談】

「一番苦しいときにどんな言葉をもらったかで、その後の人生が決まる」 -エム ナマエ 引越しのためにパッキングをしていたら、2001年に親友の一人がくれた手紙が出てきた。 1998年、僕は、同じ年の同じ日に生まれた最初の彼女を、二年間の闘病の末にガンで失って、二人の間に起こった様々な問題に対する罪悪感、自分だけが一人で新しい毎日を与えられる、ということへの混乱の中で、誰に対しても心を閉ざしてしまい、毎日、一人で泣いてばかりいた。 19歳の自分は、起こったことに対処する術も何一つ知らず、進路や人生そのものにも行き詰まって、随分と他人からの心無い言葉を聞く結果になってしまった。 でも、僕のことを昔から知っている親友たちは、錯乱と不安、痛みと苦しみの中で、人生に行き詰った僕に向かって、 「おまえのことは心配してねーよ。桑だったら大丈夫だからな。何でって言われても説明が難しいけど、6歳から親友やってる俺が言うんだから間違いないと思うぞ」 「桑のことは俺がよく知ってる。おまえのことは、うちの母ちゃんでさえ、小学校の時から一目置いてるもん(笑)」 「おまえの根性と人間性があれば、どこでだって通用するさ。俺たちがついてるんだから、それ忘れんなよ」 などと、いつだって僕に信頼を置いてくれ、折に触れて、その気持ちを伝えてくれた。 そして、彼らのその信頼の気持ちは、心も体もボロボロになってしまっていた僕に「もう少しだけ生きてみよう」と思わせる力をくれた。 上の手紙は、東京を経由し、アメリカで新しい生活をする決意をした僕が、北海道から東京に行く前夜に、そんな親友の一人に手渡されたもの。 「今読むなよ。おまえ、絶対泣くからな(笑)。飛行機の中で読め」と言われて、飛行機の中でこの手紙を読んだ手紙。 彼の予想通り、読み終わった後に号泣した。それまでの数年間の苦しみや葛藤、彼らに嘘をついてまで自殺をしようとした時のことを思い出して、飛行機の中で涙がボロボロとこぼれた。 そして、絶対に絶対に、どんなことがあっても絶対に、彼らの信頼を裏切る生き方だけはしない、と心に誓った。 辛くてどうしようもないとき、あれから何度、地元の親友のことを思い出したかわからない。 「あいつらは、俺の事を信頼してくれてる」 それを思ったら、苦しくて倒れそうなときだって、真夜中に涙が止まらなかったときだって、どんなときだって乗り切ることができる力が沸いてきた。 「俺は、これからどんな壁でもぶち破って、あいつらの信頼に応えるんだ」 そんなことを考えるとき、僕には信じられないくらい大きな力が沸いてきた。 「信頼」 これほど大きな力を、僕は、いまだに知らない。 他人をコントロールするような、勘違いの「信頼」ではない。 僕は教会での自分の立場と性格上、今までに多くの人の葛藤や苦しみに関わって生きてきた。自殺したいと願う人、引きこもっている人、気が狂いそうな気持ちと葛藤している人などと、数多くの関わりを持って生きてきた。 その中で、いつも感じるのは、行き詰っている人や引きこもっている人を、その人の言葉にできない知恵や経験を、そして、その向こうにある可能性を、周りの人間はもっと信頼してほしい、ということ。その人が形にできていないだけものを、言葉にできていないだけのものを、もう少しだけ見る努力をしてほしい、ということ。 目の前の人が、自分の考えや好みに合わせて動かないからといって、自分勝手なものさしで裁くんじゃない。無自覚に圧力を掛けて、自分の思い通りにコントロールしようとするのでもない。 僕たちには、決して、目の前の人間の苦しみなんてわかりはしない。僕たちには、決して、目の前の人間が通ってきた葛藤を理解することなんてできない。目の前の人間は、無神経な僕たちが安易に想像する以上に、日々、何度も深い葛藤を経験してきている存在だ。わかったような面で、他人の人生を語る権利など、誰にもありはしない。 そんなことにも気が付かないような無知で無神経な僕たちに、よくわからないものを裁いたり、コントロールしようとしたりする資格なんて、そもそもありはしない。そんなことが許されるのは、相手が卑劣で不誠実な行いを止めないときだけだ。 人を信頼することができないんだったら、人の力を尊重することができないんだったら、僕たちは、安易に人の傷や苦しみに触れるべきじゃない。行き詰まりを感じる人の人生に、傲慢な思いを秘めながら、安易に入り込もうとするべきじゃない。 人は自分の操り人形でもなければ、自分の八つ当たり人形でもない。人は、決して、自分勝手な思いを投影させる対象なんかじゃない。 苦しみ悩む人を前にして大切なのは、僕たちの好みや考え方じゃない。大切なのは、そんな傲慢で自己中心的な気持ちで人の傷や葛藤に近づくことじゃない。行き詰っている人、引き篭もっている目の前の人を尊重し、そして信頼することだ。 大切なことは、他にもあるだろう。でも一番大切なのは、その人を知る人間が、そいつのことを信頼して支えることだ。 うわべだけの言葉じゃない。義務感から発する薄っぺらい言葉だけの”信頼”じゃない。その人の喜び、苦しみ、本当の心、それを知る人間が、自分には見えないその人の知恵や奥底の強さを、本気で信じて支えることだ。その信頼に触れた人間は、どんな力よりも大きな支えを胸に、その先の人生を生きていくことができる。 与えられた信頼の力をどう使うか。それは信頼を受けた本人の心にかかっている。与えられたものをどうするか。それを無駄にするのかしないのか。周りの人間には、それはどうすることもできない。それだけは、本人の意思にかかってる。 けれども、そいつに力の種を植えるのは、いつだって周りの人間だ。 周りに行き詰っている人、苦しんでいる人がいたら、どうか、目の前の人を信頼を通して、力の種を植えてほしい、と思う。心の底から、そう思う。 目に見えないその信頼の力は、人の人生を大きく変えることができる。行き詰まりにしか見えない道を、自分の足で前に進む力に変えることができる。 まだ20歳そこそこだった僕の親友は、きっと直感的に、きっと意識することもないままに、そのことがわかっていた。そして、心からの言葉を与えて、僕に力の種を植え付けてくれた。 無意識に発した彼らのその言葉は、それからの僕の人生を、大きく変えてくれた。おそらく、本人にさえも想像ができないやり方で。 彼らがいなければ、今の僕はない。生きていたかどうかもわからない。最も信頼に値しないそのときに、最も愛されるに値しないそのときに、彼らは誰よりも僕を信頼して、誰よりも深い絆で接してくれた。そのことを、僕は一生、忘れない。