人生の話

アメリカで起きた「奇跡」の話

1876年、アメリカの田舎町。 9歳のある少女が、緊張型精神分裂病と診断され、精神病棟に入れられた。彼女の名前は、「アン」といい、みんなからは「アニー」と呼ばれていた。 愛する母と弟が相次いで亡くなり、アルコール依存症の父にも育児放棄されたアニー。さらに目の病気で両目の視覚が閉ざされた彼女は、このとき拒食症を併発し、専門家が見ても治る見込みがないほど、絶望的な精神状態だった。自分を抑えきれず、暴れてしまうことも多々あった。 アニーの荒れた言動は、精神病棟に入れられた後も、一向に変わらなかった。あまりに職員の手に負えないアニーは、精神病棟の中でも、段々と厄介者扱いをされていく。   しかし、そんな精神病棟の中にも、一人だけ、アニーの回復に希望を見出す女性の看護師がいた。アニーが彼女を無視したり、暴言を吐き続けたりする中、この看護師は、毎日毎日、どんなことをアニーにされても優しく話しかけ、幼い彼女のために、ブラウニーやクッキーなどのお菓子を持っていった。 看護師が、次の日、アニーのところへ行くと、確かにお菓子はなくなっている。アニーは、看護師が持って行くお菓子を食べているようだった。 それでも、アニーの態度は、変わらない。お菓子をおいていってくれる看護師には、注意を払うことは一切せず、相変わらず、彼女の方を見向きもしなかったり、彼女に暴言を吐いたりする毎日だった。   しかし、そんなアニーにも、少しずつ変化が訪れる。親しみを持って、根気強く心を開き続ける看護師を前に、少しずつアニーの暴力的な言動はなくなっていき、看護師の呼びかけにも、わずかに応える日々が出てくるようになった。 見捨てずに信じてくれたその看護師と少しずつ交流していくうちに、年月は流れ、アニーは周りが驚くほどの回復を見せる。その回復の順調さに、アニーは病棟付属の学校に通い始めることを許され、ついには、アニーは精神病棟から完全に解放されていく。   人並み以上の努力を費やし、非常に優秀な成績で学校を卒業したアニーが選んだのは、教師への道。アニーは、自分と同じように障害を持った子供たちの先生になることを決意した。   アニーの名前は、アン・サリバン。   ヘレン・ケラーの家庭教師「サリバン先生」とは、このアン・サリバンのことだ。 アニーは、のちに、盲目の教育者と呼ばれたヘレン・ケラーの先生となり、生涯を通して彼女の親しい友になっていく。   ヘレン・ケラーは、目が見えず、耳も聞こえなかった。視覚も聴覚も、生まれつき、ほとんど閉ざされていた。 美しい物語ばかりが語られる傾向があるが、ヘレン・ケラーは、幼少時から美談を重ねられるような人物ではない。視覚と聴覚に困難を抱える幼いケラーは、その不自由さからくるストレスからか、「怪物」と称されたこともあったほど、わがままで乱暴な子供だった。   しかし、ケラーは、その目と耳のハンデを跳ね返す。彼女は必死で学んで大学を卒業し、その一生を障害を持つ人々の教育や福祉に用いた。ケラーの人生の物語は、多くの人々を勇気づけ、今では彼女は世界中で知られた教育者、福祉活動家として知られている。 このヘレン・ケラーが7歳のとき、家庭教師として呼ばれたのが、20歳になったアニーだった。 学ぶ気力も無く、わがままで頑なだったヘレン・ケラー。 アニーは、その幼いケラーの先生となり、やがて生涯の友となっていく。精神病棟を出たあのアニーは、その後、投げやりで自分勝手だったヘレン・ケラーのいのちに、確かな奇跡の種を植えていく。   アニー・サリバンの生涯。 それは、幼い頃に厄介者のアニーに根気強く付き合ってくれた、あの看護師を抜きにしては語れない。名もない一人の看護師は、幼いアニーの心に奇跡を起こす。 そして、そのアニーは、生み出されたその奇跡に活かされながら、この世界に、もう一つの奇跡、ヘレン・ケラーを生み出していく。 さらに、ケラーは、そこから、次の奇跡の種を世界中に植え、生み出された奇跡は、またさらなる奇跡を生み出していく。     奇跡は、連鎖する。 させることができる。 僕は、そう信じて生きている。 奇跡とは、超自然的な出来事のことではない。エスパーが起こす、感覚では捉えられない何かのことでもない。ヘブライ語やギリシャ語で綴られた聖書で語られた「奇跡」という言葉も、英語で言えば「Wonder」であり、「Supernatural(超自然的)」の意味ではない。実際に、聖書で語られる「奇跡」のドイツ語訳も「Wunder」であり、超自然的なマジックの意味はない。 奇跡とは、古代の人が神の業としか例えようがなかったほど、畏敬の念や感嘆と驚嘆に包まれる出来事。 そんな奇跡は、誰の周りにも溢れている。 僕たちにも起こすことができる。 名前すら知られていない、あの看護師が幼いアニーに起こしたように。 そして、アニーが幼いヘレン・ケラーに起こしたように。   (アン・サリバンとヘレン・ケラー)

人生の話

恩人の石川欣三郎さん

2010年11月。苦難の時代に多大にお世話になった石川欣三郎さんが、僕がバンクーバーを離れて半年後に亡くなった。 石川さんは、パートナーの磯和さんと一緒に、 「桑原くんのメッセージだけは、私たちは毎週ボイスレコーダーに取ってあるんですよ。桑原くんの時だけは、教会を欠席しちゃいけないと思ってね」 「桑原くんは、どこにいたって成功するんだから、教会にいたら、もったいない気がするんですよ。私たちみたいな老人が教会に留めてしまって、若い桑原くんの未来を奪ってるんじゃないかって」 と、いつも僕に過分な言葉をかけてくれ、事あるごとに気遣ってくれた。 僕に不倫関係を迫ってきた中年女性に断ったことへの陰湿な仕返しをされたときも、日本で職を失って居場所のない牧師夫婦の陰湿な言動に悩まされたときも、詐欺事件を起こしてバンクーバーに逃げてきた男に嘘で攻撃されたときも、いつもいつも、石川さんは助けてくれた。優しい言葉をかけてくれた。 今の仕事ができるのも、バンクーバーで支えてくれた石川さんのおかげ。僕にとっても、Good Friends Japanにとっても、石川さんは、とても、とても重要な人だ。 「ヨーロッパと台湾でうまくやってます」、「これ全部、学生たちからの温かいメッセージです」って、何とかして石川さんに今の状況を報告したい。時々、そんな気持ちに駆られる。もう二度とできはしないことくらい、痛いほどわかってはいても。 本来は僕が司式するはずだったバンクーバーの記念礼拝(葬儀)で読み上げてもらうために、オンタリオ州の教会に招聘された僕がバンクーバーに送ったのは、ソファを叩きながら、涙を流しながら、震える手で書いた、以下の文章。ふとしたきっかけで、先日、Google Driveから引っ張り出して、久しぶりに自分で読んでみたら、色々な感情がぶり返してきた。 今回、石川さんが亡くなったというEメールを受け取り、教会の仕事の疲れが吹き飛ぶくらいに驚きました。私がバンクーバを発つ前、石川さんはご自分の健康状態を冗談にして、「記念礼拝(葬儀)の司式は頼むよ。桑原くんって、決めてるんですよ。だから、早く戻ってきてくれないと、間に合わなくなっちゃう」と言って笑っていました。 「早く戻ってきてくれないと、間に合わなくなっちゃう」というのは、以前からの石川さんの口癖で、私がバンクーバーにいた6年間で、何度おっしゃっていたか分からないくらいです。しかし、まさか、本当に間に合わなくなるとは思っていなかったので、今回、石川さんが亡くなったと聞いて、とてもショックです。 正直、私がバンクーバーを離れて半年でこのようなことになってしまったこと、牧師が不在のときにこのようなことになったのは、とても悔しく、とても残念に思いました。 しかし、V教会(*イニシャルにしてあります)には、私に様々なことを教えて下さった素晴らしい信徒の方々がいらっしゃり、何かがあれば、その人のために尽くす信徒の方々がいらっしゃいます。今回、病院に入院した石川さんのことも、様々な方が訪ねて下さっていたようで、「教会の家族とはいいものだ」と改めて思いました。 石川さんとは、本当に色々なことを共にしました。 教会のことで議論をし、辛い時には励まされ、食事をしながら笑い合い、意見の相違があるときも、若くして教会の職に就いた私の立場や考えを尊重してくれました。未熟な私にも、温かい言葉をかけてくれました。 私にとっての石川さんは、様々な面を持っていました。 まず、石川さんは、とても真摯な方でした。 石川さんが語る言葉に表面的な薄っぺらさはなく、言葉の一つ一つが心から出ているものでした。石川さんがお話をするときは、本当に心で思っていることだけを話して下さるので、それがたとえどんなものであっても、石川さんとは、いつも信頼と安心を持って言葉を交わすことができました。決して言葉数の多い方ではありませんでしたが、その分、石川さんの言葉には重みがあり、分かち合って下さったことの多くを、今でも鮮明に思い出すことができます。 また、石川さんは、真面目であると同時に、冗談の好きな方でした。 磯和さんも冗談の好きな方なので、何でもない冗談を、三人でよく笑い合っていたことを思い出します。 Tsaiさんのお知り合いの一平くんが教会に来ているときには、石川さんと男三人でよく話をしていました。あるとき、石川さん、磯和さんのご自宅に一平君と二人で招待をされたときに、「石川さんは、親切すぎです。ここは大先輩として、この不届きな一平にガツンと言ってやって下さい。僕は、石川さんのお宅に、とんでもない男を連れてきてしまいました(笑)」、「いや、桑原さんこそ、とんでもない先輩です。石川さん、締め上げておいて下さい(笑)」などと一平君と二人でふざけていたら、心臓にペースメーカーを入れている石川さんは、お腹を抱えて笑っていました。 その後、「すみません。笑い過ぎて心臓に悪いかも知れないですね」と一平君と二人で言ったら、石川さんが「いや~、逆に心臓が元気になるかもしれないよ」と返してきて、またまたみんなで大笑いしました。何だか、それもつい先日のことのようです。 そして、石川さんは、何よりも信仰者でした。教会の共同体とはどういうものであるべきかを真剣に考え、イエスの歩いた道を歩こうとした信仰者でした。 「ナザレに生きたイエスは、救い主だ」とは教会でよく言われることです。しかし、それが私たちの日々の中で具体的に何を意味するかは、教会では、実はあまり共有されていません。 イエスが救い主キリストであるのは、漠然とした教会の宗教的観念が、そのようなことを語っているからではありません。教会の教理を信じても、信条に「その通りです」と告白しても、それは人の世界を変え、生き方を変えることは決してできません。 イエスが救い主であると言われるのは、イエスの言動を通して、その歩いた道を私たちが実際に歩くことを通して、わたしたちが、神が一人一人に与えた「いのち」に触れ、死ですら終わりにすることのできない「いのち」に生きることができるからです。そして、その「いのち」によって、私たちが新たに作り変えられることができるからです。 カナダ合同教会の信条にもあるように、イエスが語った永遠の「いのち」、わたしたちの時間の概念ではかれない「いのち」というのは、死のあとの命のことではなく、死を超えた「いのち」のことです。死んだあとの命、というのは、どの宗教においても触れられる傾向がありますが、キリストの教会が語り続けるのは、死後の命というよりも、今現在、ここで生きる「いのち」のことです。自分を殺し、他人を殺し、世界を殺すのではなく、神に作られたもの全てを生かし続けるような「いのち」-それが教会が伝え続けるイエスの「いのち」です。 ご自宅に何度も招待して下さったり、聖書を読む会にはほぼ欠かさずに来て下さったりと、石川さんとは多くの時間を過ごす機会に恵まれました。私が石川さんと身近に接した中で思うことは、石川さんは、誠実に、その「いのち」を生きようとしていた、ということです。 石川さんは勉強熱心な方で、聖書を読む会では、こちらがハッとさせられる意見も出して下さいました。おそらく、聖書やキリスト教に関する沢山の知識も持ち合わせていたことでしょう。 しかし、何よりも私の印象に残ったのは、石川さんの言葉や笑顔の裏にあるキリストの「いのち」でした。 「いのち」を生きている人は、他人を活かすことができます。ちょうど蝋燭(ろうそく)の明かりと同じように、「いのち」を生きようとする人は、「いのち」の光で人を照らし、凍える人を暖めることができます。私にとっての石川さんとは、まさにそのような方でした。話をすると安心することができ、イエスが語る「いのち」を分け与えられる、そのような方でした。  みなさん、今日は、その石川欣三郎さんの記念礼拝です。どうか、みなさんで石川さんが生きた、そして今も消えない「いのち」を覚え、一緒に祝福して下さい。石川さんの「いのち」は、今も消えていません。石川さんが生まれ、日本やカナダの地に生き、私たちと「いのち」を交えることができたことを、みなさんでお祝いして下さい。 石川欣三郎さんと出会い、心を通わせ合い、教会の家族としてときを過ごすことができた。今日は、そのことが祝福される日として下さい。 私は遠くオンタリオの地にいますが、最後の最後まで石川さんを近くで支え続けた磯和さんを始め、ご家族やご友人のみなさんのことを祈っています。石川さんが日曜日にいつも座っていた礼拝堂で、石川さんの想いが詰まった教会で、どうか、みなさんにとってよい記念礼拝が持たれますように。    桑原 泰之 2010年11月27日

人生の話

大切な人を大切にすることほど、大切なことはない【元アメフト選手の話】

アメリカの小さな町に、プロのアメリカンフットボール界で活躍したオニール(仮名)という男がいた。 オニールは、幼い頃からアメフトで頭角を現し、順調に大学チームでも活躍し、やがてプロへの道を歩み始めた。彼は懸命にアメフトに取り組み、結婚して数年後、いくつかのチーム記録を残して引退した。 時は過ぎ、オニールは、三人の息子と一人の娘の父親になった。 彼の三人の息子は、当然のように、幼い頃から父親にアメフトを叩き込まれ、毎日毎日、暗くなるまでチーム練習、個人練習に明け暮れるようになった。 オニールは、この三人の息子をプロ選手にしようと、全身全霊を傾けた。毎日毎日、息子たちの練習に根気強く付き合い、厳しくアメフトの基礎を仕込んだ。 父親に似て才能溢れる三人の息子達は、やがて十代の少年になり、順調に大学フットボール界への階段を上り始めていく。 しかし、その一方、オニールの愛する末の娘は、原因不明の過食症で、どんどん体重が増え、ついには100キロを超えるほどになっていった。 数か月がたち、妻から相談を受けたオニールは、娘が精神的な病気を抱え、体重も100キロを超えて、明日から入院しなければならないほどだ、ということを聞いて驚いた。 「そんな馬鹿な。一体、あの子に何が起こったんだ!?」 オニールは、娘を溺愛していた。三人の息子たちと同じように、いや、場合によってはそれ以上に、愛娘のことも深く愛していた。すぐさま娘のところに飛んでいき、「どうした?おまえに何が起きてるんだ?」と尋ねた。 しかし、彼女は答えたがらない。彼と目も合わせようとしない。何度、接触を試みても、つれなく追い返されるだけだった。 「あれほど良い関係だった娘がなぜ?」 あれだけ自分に懐いていた娘が心を開かないことに、オニールは戸惑った。 「娘に何が起こったんだ?あの子の何が問題なんだ?」 彼は、心のモヤモヤを晴らすことができない。 「問題なのは、あの子ではないわ。あなたよ」 その夜、彼の言葉を聞いた妻は言い放った。   「何だって?」 「『あの子に何が起こったんだ?』じゃないでしょう。私もあの子も『パパに何が起こったんだろう』と思ってた。あなたが問うべきは、『What happened to her? What’s wrong with her?』じゃない。『What happened to ME? What’s wrong with ME?』でしょ」 オニールは、憔悴し切った妻の唐突な言葉に戸惑った。 「オニール、あなたは自分が息子たちにかけた時間と、娘にかけた時間を天秤にかけて考えたことあるの?」     「あの子の何が問題なんだ?」 父であるオニールにとって、本当の問題は、娘ではない。娘に何が起こったか、ではない。今の今まで、こんなことになるまで、そのことに全く注意を向けていなかった彼自身だ。 「娘には、いつも会っていたはず。挨拶を交わしていたはず。でも、気が付かなかった。言われてみれば、確かに顔がふっくらしてきたとは思ったが、娘の変化に、外側の変化にも、内側の変化にも、気が付かなかった。オレは、一体、何をしていたんだ?いつも会っている娘だったのに。一体、オレに何が起こってしまったんだ?」 本当の問題、問題の根っこは、娘ではない。自分だ。今の今まで、こんなことにさえ気がつかなかった自分だ。三人の息子をプロ選手にするために全身全霊を傾け、自分が思う以上に娘に注意がいかなくなっていた、娘に時間を割かなくなっていたオニール自身だった。 オニールは、やっとのことで、本当の問題に気が付いていく。 彼は、次の朝、妻と共に娘の部屋に行き、自分がいかに愚かだったかを、率直に二人の前で告白した。 息子たちと同じくらいの時間を娘に割いていたと思い込んでいたが、全くの間違いだったこと。 自分の過ちを許してほしい、ということ。 今から自分にチャンスを与えてほしい、ということ。 大男の元アメフト選手が、涙ながらに、心の内を家族の前にさらけだした。 娘は彼の謝罪を受け入れた。大きなハグとともに受け入れた。娘も、妻も、オニール自身も涙が止まらなかった。   10年前、僕がオニール一家のバーベキューに招待された時、オニールのそばには、彼の娘、そして娘の子供たちがいた。 オニールと僕は、僕が地域サッカーのコーチと審判をしていた時に、この子供たちを通して知り合った。 「娘からいつも話は聞いてるよ。孫と忍者トレーニングしてるんだって(笑)。オレみたいなジジイも忍者にしてくれるか?がははは」 オニールは非常に親しみやすい性格で、孫が僕と仲が良かったせいか、僕の隣に座って色々な話を聞かせてくれた。切羽詰まって苦しんでいた僕の胸の内も、本当に真摯に聞いてくれた。 これから奨学金をもらって大学院に行くという僕の決意を聞いていた彼は、不意に僕に言った。…

サッカー

ディエゴ・ロペス:「モウリーニョはここにいたとき、盾になってくれた。でも、アンチェロッティは、僕がターゲットになるのを防がず、過度の注目が僕に向けられていた」

モウリーニョは、レアル・マドリー指揮官としての最後のシーズン、クラブの伝説的選手カシージャスをスタメンから外し、ビジャレアルからディエゴ・ロペスを連れてきて、物議を醸し出した。 噂では、モウリーニョとカシージャスの関係が冷え込んでいたから、と言われている。しかし、実際にはそうではなく、モウリーニョの決定は純粋にサッカーに関するものだったと、ロペスは述べている。 「モウリーニョは、僕に話しかけて、直面している困難に対応する強さを与えてくれた。完全に僕を信頼しているし、前年に僕と契約を結ぼうとした、とも言っていたよ」 「カシージャスに敵対心などはなく、ただ僕がトレーニングでベストだと思ったと言っていた。モウリーニョの言葉は、選手たちは新たなレベルまで引き上げてくれる」 「モウリーニョはここにいたとき、盾になってくれた。でも、アンチェロッティは、僕がターゲットになるのを防がず、過度の注目が僕に向けられていた」 2012/2013シーズン、カシージャスは主にベンチで過ごしている。そして昨シーズンは、カルロ・アンチェロッティの元で、ロペスとのローテーションでの起用となっている。その結果、カシージャスとロペスの関係には変化が生じたという。 「カシージャスとの間に言い争いはなかったけど、僕がマドリーに来て、関係は変わったよ。夕食を共にしていたこともある数年前のような関係ではなくなったんだ」 「僕は今でもマドリードが好きで、カシージャスと全てのスタッフに大いなる敬意を抱いているよ」 ロペスは昨シーズン、レバンテからケイラー・ナバスを獲得したマドリーを離れ、ミランに移籍した。彼は、イタリアに来るのを選んだことを、正しいことだと思っている。 「僕は正しい決断をしたと思っている。でも、ミランはベストのときを迎えてはいない。でも、これから改善して、僕たちは将来、ベストの状態に戻ると思っているよ」 参考:The goalkeeper was first choice under the Portuguese at Real Madrid amid rumours the coach had a falling out with his rival for the No.1 jersey

日本語ブログ

セスク・ファブレガス「モウリーニョはベストの監督で、結果を手にする必要がある。今まで率いたどのチームでも、彼はその結果を得ているんだ」【海外記事】

セスク・ファブレガスが、ベストの監督としてジョゼ・モウリーニョを評価し、監督としての彼の鋭さが、良し悪しの有無は置いておいて、アーセン・ヴェンゲルとペップ・グアルディオラとの違いを生み出しているとした。 ファブレガスは、ペトル・チェフが移籍すれば、有力な次期副キャプテン候補になる。彼は、今シーズンのスタンフォードブリッジでの成功には、モウリーニョ効果が欠かせなかったと語っている。 「彼は勝利することが好きなんだ。今まで一緒に仕事をした他の監督がそうじゃなかったという意味じゃない。でも、彼は今までの監督の誰よりも、勝利することを渇望しているんだ。練習や試合の一つ一つで、そのメンタリティが示される。彼がキャリアにおいて栄光を手にしてきた理由がわかるよ」 「彼はチームのマネージメントの仕方を知っている。選手からベストを引き出す術を知っている。それこそが、選手が監督から与えられたいと思うことだ。年間60試合を戦う中で、3日おきにはモチベーションを刺激されるんだ。簡単なことじゃないよ。周りは僕たちが大きなチームを持っていると思うかもしれないけど、実際はそうじゃない。大体22人の選手で、何人かはアカデミーの選手だったり、21歳以下だったりするんだ。だから簡単な仕事じゃない。彼は実際、ファンタスティックな仕事をしている。彼はベストの監督で、結果を手にする必要がある。そんな中、今まで率いたどのチームでも、彼は、その結果を得ているんだ。率いたチームは、チャンピオンにする。それが真の勝者の印だよ」 「試合でトップフォームであるために、毎日叱咤激励してくれる監督のような存在は、どの選手にも必要なんだ。ひとりよがりのプレーが許される試合などはなく、それが助けになる。練習でいいプレーをしなかったり、簡単に思われる試合でいいプレーをしなかったりすれば、試合に出ることはできない。それがプレーの質を保つ助けになっているんだ」 「これが新しい時代のスタートであると願っているよ。ジョン(テリー)、ディディエ(ドログバ)、ペトル(チェフ)、イヴァノヴィッチ、ミケルなど、長い時間ここにいる選手たちはいるけど、これは新しいチームなんだ。でも、新しい選手たちも、この勝利のメンタリティーを感じているよ。これから先、何年もそうだろうね」 「シーズン当初から言っていたように、チェルシーは若くて才能に溢れたチームだ。それが僕がここに来た理由の一つでもある。ヨーロッパのベストの一つにだって、なりうるチームだ。それに監督は、僕がしばらく感じられなかったことを感じさせてくれる。プレーさせて、自分に自信を与えてくれるんだ。ここでプレミアのタイトルを獲得するのは、バルサでリーガ勝ち点100を達成して優勝した時と同じくらい感慨深い。自分が重要であると感じることができている。選手として、それが求めていることなんだ。チームの大切な一員と感じられる。これがチェルシーで僕に起こっていることだ」 参考:英ガーディアン紙

人生の話

路上生活者の大切な「椅子」を壊したお婆さんの話

昔々、東京がまだ江戸と呼ばれていた時代のこと。 一人のおばあさんが路地を歩いていたら、道端に座っていた路上生活者の男が、彼女に声をかけた。 「ばあさん、銭を恵んでくれ」 「そうは言っても、私には何もあげるものはないよ。それに、たとえお金をあげても、あんたの生活は、明日も変わらないだろうね」 「そうかもしれないけど、俺はいま銭が欲しいんだ」   「でもね」 おばあさんは言葉を続けた。   「質問していいかい?あんた、何の上に座ってるんだい?」   「ゴミだよ。何年も前に、川底で拾ってきたのさ。硬さと高さがちょうどいいんで、ずっと椅子にしてるんだ」   「私には箱に見えるね。中を開けて見たことはあるかい?」   「壊さないと開けられないよ。でも壊したら、俺の椅子がなくなっちゃうじゃないか」   「ちょっと、このお婆に箱を見せてくれるかね」   おばあさんは、そう言って箱を受け取り、いきなり近くの岩に叩きつけた。   「何すんだ、ばあさん!」   壊れた箱の隙間から見えたのは、金の塊だった。   「これだったら、日本で一番高価な椅子だって買えるだろうよ」 おばあさんは、そう言って男を抱きしめ、微笑みながら去っていった。 苦難の中にいる人を前にしたとき、何かを与えることも、時には必要かもしれない。でも、多くの場合、もっと大切なことは、既に手にしているものの価値を、実感できるように提示することかもしれない。その人が既に秘めている存在の価値に気がつくきっかけを与えることかもしれない。 たとえ何も与えられなくても、人には、できることがある。

サッカー

ペップ・グアルディオラ:興味深い5つのこと【海外記事】

バイエルン監督のペップ・グアルディオラは、興味深い人物だ。リオネル・メッシのような選手が彼と強い絆を育む一方で、ズラタン・イブラヒモビッチのような選手は、彼を毛嫌いする。バルセロナでプレーしていた頃から、彼はいつも注目を浴びていた。このスペイン人監督について、あなたが知らないだろうことが以下の5つ。 1.選手としての最後のクラブ 信じられないかもしれないが、彼がプレーした最後のクラブは、メキシコのドラドス・シナロアだ。選手としての現役を退く半年前、34歳のときに移籍し、わずか半年で退団した。スペイン人監督フアン・マヌエル・リージョに誘われてチームに加入しており、メキシコで指導者養成学校に通っていたグアルディオラにとっては、これは自然な選択だったとも言える。 2.大事な得点を記録 スペイン代表としては、守備的セントラルMFのグアルディオラは、わずか5得点を記録しているだけだ。しかし、親善試合で記録したのは1点のみで、5得点のうちの4得点は、重要な試合で記録したものだ。最初の得点は、1994年アメリカW杯の予選でラトビア相手に決めたもの。また、3−1で勝利したW杯本戦のボリビア戦では、先制ゴールも決めている。残りは、1998年フランスW杯予選での2点、2000年にスウェーデンとの親善試合で記録した1点だ。 3.バルセロナのボールボーイ 1986年4月16日のヨーロッパカップ準決勝、スウェーデンのヨーテボリとの一戦で、15歳のグアルディオラ少年は、ボールボーイを務めている。カンプノウで行われたその試合で、2週間前に0−3で破れたバルセロナは、今度は3−0で勝利し、二試合合計を3−3の引き分けに持ち込んだ。延長でバルセロナのビクトル・ムニョスが決勝PKを決めたとき、グアルディオラ少年は、祝福のためにムニョスに走り寄っている。 4.忍耐は美徳 ペップは18歳のときに、妻のクリスティーナに出会って、交際を始めている。しかし、二人は2014年5月まで結婚することはなかった。事情があって、25年間も結婚せずに付き合っていたことになる。現在、夫婦の間には3人の子供がいる。 5.3つのメダル 最初の金メダルは、1992年にスペイン代表で勝ち取ったオリンピックのメダル。2つ目は、2010年に受け取った、スポーツ功労者勲章。スペイン国内でのスポーツへの貢献に対して送られている。3つ目は、2011年のカタルーニャ議会勲章。これはカタルーニャ地方の勲章の中でも、最高の栄誉とされている。 参考

人生の話

嫉妬のあまりに自分の羽を差し出し続けた大きなワシ

昔、二羽のワシがいた。一方の小さなワシは、長い時間かけて飛ぶ練習をしていたこともあり、もう一羽の大きなワシよりも、速く、空高く跳ぶことができた。同じように飛べない大きなワシは、表情には出さないものの、この小さなワシのことを、いつも心で苦々しく思っていた。 そんなある日、嫉妬を抱えた大きなワシは、一人の狩人に出会う。そして、狩人にこう頼んだ。 「謝礼は払うから、あの小さなワシを弓矢で射殺してくれませんか?」 狩人は答えた。 「今は矢につける羽がないけど、それがあれば何とかできる」 「それなら、これで」 ワシは、自分の羽を一枚差し出した。   「ああ、これなら大丈夫だ」 狩人はその羽を矢につけ、優雅に飛び回る小さなワシをねらって、鋭い一発を放った。 「ダメだ!逃げられた!あいつは見事に空を飛ぶな。これは難しいぞ」 「あんなの、大したことないですよ。もう一度、お願いします」 その後、嫉妬心を抑えきれない大きなワシは、何とかしてあの小さなワシを殺そうと、狩人が狙いを外すたびに、何度も何度も自分の羽を差し出した。ただ、あの有能な小さなワシに弓矢を食らわせてやろうと考えながら。 しかし、それでも小さなワシは射止められない。 「すまんが、あいつは俺には手に負えないよ」 何度も失敗して根負けした狩人は、やがて、そう言って去っていった。 取り残されたワシは、あまりに多くの羽を失って飛ぶことができず、その夜、狼に食い殺された。   嫉妬から相手を攻撃しても、失うのは自分自身の羽。そういう人間からは、周りの人間は離れていき、やがて飛ぶことさえもできなくなる。 自分の羽は自分が飛ぶために使うのが、幸せになるための第一歩。他人を撃ち殺すために羽を使っていては、あなた自身は一生、大空を飛ぶことはできない。

サッカー

マルコ・ロイス:知っておくべき5つのこと【海外記事】

ドイツ代表のマルコ・ロイスは、ボルシア・ドルトムント在籍中に、ヨーロッパのベスト選手の一人に数えられるようになった。素早いボールさばきができる上に、得点への嗅覚も持ち合わせ、世界のウィンガーの中でも上位にランクされる選手だ。 今シーズン、ドルトムントはブンデスリーガ10位と苦戦をしている。しかし、ロイスは、直近の7試合で5勝2引き分けと好調を続けるドルトムントに大きな貢献をしてる。 アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督は、ウォルコットの代わりになる攻撃的MFを探していて、ロイスとの新契約に積極的だと言われている。ウォルコットは週給10万ポンドを要求しているが、ヴェンゲルは、これを支払う気はなく、代わりにこのドイツ代表ウィンガーをチームに加えたいようだ。 ボルシア・ドルトムント所属のドイツ代表マルコ・ロイスに関して、あなたが知っておくべきことは、以下の5つだ。   1.2012年からボルシア・ドルトムントでプーレしている マルコ・ロイスは、ドルトムントで生まれ、ユースのキャリアをドルトムントでスタートさせ、2006−2007シーズンからはロート・ヴァイス・アーレンに在籍して、プロのキャリアを歩み始めた。その後、ボルシア・メンヒェングラートバッハに移籍し、ブンデスリーガ一部で輝きを放ち始めた。 2009−2010シーズンは、8ゴール4アシストと静かなスタートだったが、翌シーズンにブレークし、2011−2012は18得点で、ブンデスリーガのベスト選手の一人になっている。2012年に、ユース時代に所属した古巣ドルトムントに移籍するまでの直前の2年間では、彼は33得点24アシストを残している。 2012年1月、ロイスは、故郷のクラブであり、ユース時代を過ごしたドルトムントに、1700.5万ユーロの移籍金で帰還した。ボルシア・メンヒェングラートバッハは、2016年までの新契約をロイスに提示したが、彼は2015年夏に解禁になる2500万ユーロの契約解除条項を盛り込みながら、ドルトムントと5年契約を結んだ。この年ドルトムントに加入したのはロイスのみで、彼の元ガールフレンドのカロリン・ボフスも、共にドルトムントに移住している。 ロイスは2年連続でドルトムントをチャンピオンズリーグに導き、2012−2013年シーズンには、結果的にはバイエルンに2−1で敗北するものの、チームを決勝まで導いている。2014−2015シーズンは、ベスト16でユベントスに敗れ去った。   2.年間436万ドルを稼いでいる ロイスは最近、契約解除条項なしで、ドルトムントと新たに2019年までの新契約を結んだ。 #reus2019 pic.twitter.com/GdDPJCjh7p — Borussia Dortmund (@BVB) February 10, 2015   ドルトムントにとって、ロイスと新契約を結んだ最大のポイントは、彼をバイエルン・ミュンヘンに移籍させないことだった。過去2シーズンにおいて、バイエルンは、2013年7月にゲッツェ、2014年7月にレバンドフスキと契約をしている。 ゲッツェは、ドルトムントのユース出身で、21歳になるまでに、トップチームで31得点45アシストを記録している。レバンドフスキは、バイエルンと契約するまでに、ドルトムントでの4シーズンで、103得点を記録している。この2人のスーパースターのように、ドルトムントはロイスに去ってほしくはなかった。だから、夏の移籍シーズンが来る前に、ロイスと新契約を結んだのだ。 アーセナルからの興味も、ドルトムントにとって衝撃だっただろう。セオ・ウォルコットの契約が切れ、ウォルコットは週給10万ポンド未満での契約を望んでいないことから、アーセナルはロイスに白羽の矢を立てた。アーセナルはスピードのあるウィンガーを探しており、ロイスのスキルは、ウォルコットに似ていたのだ。   3.ソーシャルメディアで、非常にアクティブである マルコ・ロイスは、ソーシャルメディア上での露出が多いためか、とても人気のある選手である。ツイッターでは200万人を超えるフォロワーを有し、タンブラーでも活発だ。彼のツイッターIDは、ニックネームをもじった@woodyinho。このニックネームは、アニメのキャラクターのウッディ・ウッドペッカーから由来したものだ。彼のチームメイトが言うように、ロイスは走るときに頭が上下する(*ウッドペッカーは英語でキツツキ)。 ロイスのツイートは、2011年8月にアカウントを作成してから55回しかないが、彼のツイートには、ドルトムントに帰還したときのものや友人との写真も含まれている。 Hi Leute, ich freue mich euch mitteilen zu können, dass ich meinen Vertrag bis 2019 verlängert habe! @BVB Euer Marco pic.twitter.com/mXEuEhBrg7 — Marco Reus (@woodyinho)…

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ネイマールについて、あまり知られていない5つのこと【海外記事】

ネイマールは、今やサッカー界で最も注目されるスターの一人だ。熱狂的なファンにとっては、彼について知らないことは、非常に少ないだろう。 今回、私は、彼に関してまだあまり知られていはいないだろうことを掘り出してみた。容易な作業ではなかったが、私自身にとってそうだったように、あなたにも、これらがサプライズになることを願っている。 1.南アフリカW杯 ネイマールは、2010年南アフリカW杯でもプレーできただろうが、当時のドゥンガ監督は、サントスから離れるこの若いスターを招集しなかった。14,000人以上のファンが、W杯のメンバーにネイマールを入れるように嘆願書を書いたが、ドゥンガは拒んだ。ペレやロマーリオさえも、その嘆願書に名前を連ねていたにも関わらず、だ。もしもメンバー入りしていれば、たとえ短い間の途中出場であっても、ネイマールはチームに貢献したことだろう。ドゥンガは、彼のメンバー入りには頑固であった。 2.タイム誌 ネイマールは、米タイム誌の表紙を飾った初めてのブラジル人サッカー選手である。ネイマールは、2013年にこの象徴的なマガジンの表紙に選ばれている。タイム誌は1923年創刊だが、ロナウドやペレといった選手たちでさえも、その表紙を飾ることはなかった。これは、ネイマールにとっても、大きなこと。試合に勝ったわけでも、トロフィーを勝ち取ったわけでもないが、履歴書に誇れる項目が増えるのは、いつだっていいことだろう。 3.広告 SportsProによると、彼は世界で最もマーケティング価値のあるアスリートであり、ナイキ、ポリスサングラス、カストロール、ロレアルとの広告契約を結んでいる。この広告がもたらす収入は、彼を世界で7番目にリッチなサッカー選手にしている。キャリアを重ねて、さらなるスター選手になれば、おそらく彼は7番目から世界のトップの一人になるだろう。ブラジルW杯も、これを後押しするに違いない。 4.ファン 有名人やポップスターには、一定のグループのファンが付いている。スポーツ界でも同様だ。有名人のファンはときには自分たちを特殊な名前で呼んでおり、ネイマールのファンも、自分たちをNeymarzetesと呼んでいる。ネイマールの私生活ではなく、純粋にネイマールのピッチ上のプレーだけを楽しんでいる人にとっては、おかしな名前に思えることだろう。 5.息子ルカ ネイマールは、19歳で父親になっている。平均的な19歳は、学校やバイトで忙しくしているかもしれないが、ネイマールは違った。彼の息子の名前はルカで、母親が誰かはプライバシー保護の観点から明らかにされていない。母親が誰かを明かしていないのは、クリスティアーノ・ロナウドと同様である。 参考

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ジョン・テリー「モウリーニョは、今もハーフタイムに激怒することがあるよ。机がひっくり返り、水のボトルは空を飛ぶんだ。3ー0で勝っていてもね」

ハーフタイムのジョゼ・モウリーニョ監督の反応は予測不可能だと、チェルシー主将のジョン・テリーは明かした。 「前半を3ー0で終えていても、時には鬼のように怒るし、負けていてよいプレイができていなくても、時にはハーフタイムにリラックスしているように見えたりする」 リーグカップ覇者は、プレミアのタイトルにも近づいている。しかし、モウリーニョは、いつも選手たちに気を引き締めさせている、とテリーは言う。 「このクラブでは滅多に起きないけど、時々はハーフタイムで負けていることがある。ロッカールームに入って叱咤されると思うだろう。でも、入ってみると、監督は静かで落ち着いた振る舞いをしていて、予想と正反対なんだ。『聞くんだ。この試合には勝つ。後半は開始早々にゴールを決めるだろう』という感じでね。そして、それを選手たちに信じ込ませるんだ」 「またあるときには、2ー0や3ー0で勝っているとする。満足した気分でロッカールームに行くと、彼は烈火のごとく怒ることもある。テーブルはひっくり返り、水のボトルは空を飛ぶんだ。『どうしてこうなっているんだ?』と思うよ」 「でも、後半に行くと、3ー1や3ー2で何とか勝つんじゃなくて、5ー0で勝つんだ。彼は選手がいつ気を緩めるかを知っているんだ。フィールドに向かう前に、それを感じ取ってしまう。選手たちや毎試合に関して、そんな感覚が降って来る。その様子を見ていると、こういったことを身につけている監督は、モウリーニョの他にはいないと思うんだ」  参考

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ポール・ポグバ:知っておくべき5つのこと【海外記事】

フランス人のスター選手ポグバは、2014年W杯で最も若い選手の一人だった。しかし、21歳にして、W杯ベスト16でのナイジェリア戦での得点を含め、既に代表で3得点を記録している。比較的短いプロのキャリアだが、多くのクラブに所属し、固定ファンも築き上げている。「Il Polpo Paul」(タコのポール)と呼ばれるこの選手は、注目必至の選手。 以下の5つが、この選手について、あなたが知っておくべきことだ。 1.彼はイタリアリーグでプレーしている フランスのラニー=シュル=マルヌで生まれたポール・ラビーレ・ポグバは、サッカーファンに愛される存在だ。フランスのル・アーブルでプレーしていたが、マンチェスター・ユナイテッドに移籍し、今はイタリア王者のユベントスでプレーしている。 2.彼は若いが、新米ではない ポグバはW杯で最も若い選手の一人だった。しかし、彼の年齢は、その経験を反映するものではない。ポグバは、6歳でサッカーを始め、クラブを渡り歩いて、経験を積んできた。2013年には、20歳以下のベスト選手に選ばれ、ゴールデンボーイ賞も受賞している。 3.ファンは、彼に多くのあだ名を付けている 最もよく用いられるポグバのあだ名は、「Il Polp Paul」か「Paul the Octopus」(どちらも「タコのポール」)だろう。この由来は、彼の長い脚。彼の身長は約188センチと高く、脚の長さも際立っている。これがタコの長い触手を思い起こさせるので、ファンはポグバを「タコのポール」と呼んでいる。 「タコのポール」は、ポグバに最も使われるあだ名だが、他のものもある。ポグバは、マンチェスター時代の同僚が、彼を「ネルソン・マンデラ」と呼んでいたことも明かしている。監督のアレックス・ファーガソンに反抗していたというのが、その理由だそう。 ただ、ポグバ自身は、ファーガソンとの確執は否定している。 「僕はサー・アレックス・ファーガソンに敬意を欠いたことはない。何かあったとしても、その反対だ。僕は彼と面と向かって物事を言っていたのだから」 4.サッカー一家で育っている ポグバは、ギニア人とコンゴ人の両親の元で生まれ、マティアス、フロランタンという二人の兄がいる。二人の兄は双子で、弟ほどの成功を手にしていないが、共にサッカー選手になっている。マティアス・ポグバは、クルー・アレクサンドラのFWであり、フロランタンは、サンテティエンヌでプレーしている。 5.彼とアレックス・ファーガソンの関係は、上手くいかなかった 2009年から、ボグバはプレミアのマンチェスター・ユナイテッドでプレーしていたが、契約延長を受け入れず、2012年に急にチームを去っている。ファーガソンは怒り、ポグバは敬意を欠いていると、公に彼を非難した。 一方のポグバも、ファーガソンは彼をプレーさせず、チームを去ることを決めた時は、「無礼な態度だった」と、ファーガソンを非難している。英紙インディペンデントに、ポグバはこう語っている。 「僕はプレーしなきゃならないんだ。監督がトップチームでプレーするチャンスがあると言ったけど、僕にはプレー時間がなかった」 参考

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アンヘル・ディ・マリアについて、あなたが知らない5つのこと【海外記事】

1.アルゼンチン第三の都市ロザリオで1988年に生まれたディ・マリアは、同国のスターであるリオネル・メッシと故郷が同じである。しかし、メッシが13歳でヨーロッパに旅立ったのに対し、ディ・マリアは故郷に留まり、ユース時代をロザリオ・セントラルでプレーし、2005年、17歳の時に同チームでプロデビューした。 2.子供の頃から、二人の姉妹と一緒にローカルの炭鉱で働いて、両親を助けていた。貧しい家に育ち、低収入のために、サッカーシューズを買うのにも一苦労した。 3.2007年、アンヘル・ディ・マリアは、故郷のロザリオ・セントラルからポルトガルのベンフィカに、わずか600万ポンドで移籍した。2010年7月には、スペインのビッグクラブであるレアルマドリードに、移籍金2500万ポンド、インセンティブ1100万ポンド付きで移籍した。 4.2008年、ディ・マリアは、オリンピックのアルゼンチン代表に選ばれ、北京五輪でプレーした。決勝のナイジェリア戦では、ディ・マリアは決勝点を挙げ、金メダルを掲げている。 5.2014年に8月、ディ・マリアは、5900万ポンドでマンチェスター・ユナイテッドに移籍した。これは史上5番目に高額な移籍金であり、イングランド史上最高の金額である。 参考  

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シャビ、イニエスタ、セードルフなどは、マンチェスター・ユナイテッドのファン・ハールをどう考えているか

シャビ・エルナンデス 「個人的には、彼との時間は素晴らしい経験だったよ」「彼と一緒に仕事をして、僕に信頼を置いてくれたんだ。17歳のときにファーストチームに引き上げてくれ、その難しい旅路をしっかりと助けてくれた」 「僕の意見では、彼はバルセロナでの仕事に正当な評価を受けていない。明確なアイデアがあって、方法論もしっかりしていた。時代を先取りした監督だったんだ」 参考 アンドレス・イニエスタ 前オランダ代表監督は、1997年にバルセロナの監督に就任し、サー・ボビー・ロブソンの後を継いだ。そして、チームを二度のリーガ王者、一度の国王杯王者に導いた。 バルサの伝説となるシャビにデビューの機会を与えたのと同様に、ファン・ハールは、若いイニエスタにも大きな役割を与えた。 「僕は17歳で、ファーストチームに入ることができて歓喜していた。彼がその機会をくれたんだ。若い選手たちに、彼はいつもとてつもない仕事をしてくれた」 「彼と仕事をするのは心を踊らせる体験で、僕は重要なステップを踏み出すことができた。彼は、ハードワークをするし、正直で誠実だ。そして何より、サッカーで偉大なことを成し遂げ、とてつもなく成功した監督なんだよ」 参考 クラレンス・セードルフ 以前にアヤックスでファン・ハール指揮下でプレーしていたセードルフは、「チームの哲学を浸透させる監督」、「すぐにファーストチームでプレーできる一流の選手たちを買いあさるのではなく、クラブの文化や戦術を知っている選手も重宝する。彼は偉大な監督で、実績がそれを証明している」などと賞賛していたが、のちに辛辣な言葉を残している。 「自分の言葉に正直だと思っていた男は、全く違った男だったよ。ファン・ハールは他人を扱うやり方によって、信頼性を失ったように見える」 参考 ジミー・フロイド・ハッセルバインク ファン・ハールは、2014年W杯のオランダ代表指揮官だった。彼は2000年から2002年にも代表監督を務め、ハッセルバインクを何度か招集している。 「彼は自分が何を欲しいのか、どのように欲しいのか、そして、いつそれが欲しいのかを正確に要求する人だ。でも、だからといって、刑務所の中の囚人のように人を扱うわけじゃない。彼は愛すべき男で、トップレベルの監督だ。世界でベストの一人だよ」 参考 パトリック・クライファート ファン・ハールが、マンチェスター・ユナイテッドの監督に就任した時、補佐役に選んだのは同士のクライファートではなく、ライアン・ギグスだった。 「ルイは、僕の役職にライアン・ギグスを据えたかったんだ。理解できるよ。クラブのことを知っている人が欲しかったんだ」 「彼は、こうも言ったよ。『パトリック、これからは自分一人で立つべき時だ』ってね。だから僕はユナイテッドにはいかなかったんだ」 参考

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ギャレス・ベイルについて、あなたが知らない5つのこと【海外記事】

2013年、ギャレス・ベイルは、8500万ポンドで銀河系集団レアル・マドリーの一員になった。以下は、この25歳の選手に関して、あなたが知らなかったであろう5つの点だ。 1)サッカーの技術では、明らかに他の生徒たちとは別次元だった。そのため、ベイルの学校の体育の先生は、彼だけには、利き足とは逆でプレーし、尚且つ、ワンタッチでプレーするように、ルールを変えることを余儀なくされた。 2)2013年3月、有名な彼のゴールパフォーマンスである、ハートマークのロゴを、自らの背番号11と一緒に商標申請した。これで様々なウェアやシューズのデザインに、このマークを使えるようになっている。 3)スパーズに在籍していたとき、ベイルが出場する試合は、プレミアリーグで24試合も勝ち星なしだったことがある。これはリーグ記録にもなっている。 4)14歳のときに、ベイルは100メートル走で11.4秒を記録している。ちなみに、100メートルの世界記録は、ウサイン・ボルトが記録した9.58秒である。 5)ギャレス・ベイルは、プレミアの月間最優秀選手賞を、ベイル自身の母国のヒーローでもあるライアン・ギグスよりも、多く受賞している。 参考

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エデン・アザールが、世界一の選手になるだろう7つの理由【海外記事】

若くしてモウリーニョ・チェルシーの攻撃の中心になったアザールは、クラブでもベルギー代表でも、順調な成長を遂げている。彼が世界のトップに立つのを妨げるものは何もないようにさえも見える。ここでは、そのためのキーになるポイントを7つ紹介する。 参考   7.技術 アザールが、世界一になれるだけのサッカー技術を持っていることは、疑いの余地がないだろう。空中のパスを綺麗なタッチでコントロールしたあと、エリア内に切り込んで、ボールを持つ足をスイッチして、ゴールを叩き込んだ、昨夜の試合で決めた2点目が、全てを物語っている。   6.フィジカルの強さ アザールは、クリスティアーノ・ロナウドのような空中戦の強さとパワーを持つことはないだろう。しかし、メッシが持つような、下半身の強さがある。それが急に方向を変えたり、ディフェンダーが付いて来られないほど鋭角にターンしたりすることを可能にしている。   5.年齢 アザールは、まだ24歳だ。数年後には、若い選手にしては、驚くべき程のトップレベルでの経験を積んでいるだろう。彼のピークが多くの選手のように28歳前後とすれば、そのときメッシは32歳だ。このアルゼンチン人は、まだ素晴らしい選手だろうが、アザールはフィジカルの面で、彼を上回っているはずだ。   4.コーチング 今までのキャリアの中で、アザールは既に様々なタイプのコーチングの恩恵に与っている。多くの良い選手を生んでいるベルギー代表のコーチ陣から、攻撃の詳細なコーチングをするリールのガルシア監督、規律を重んじるモウリーニョ監督まで、様々なコーチングを経験している。   3.ひらめき 偉大な選手は、試合を読むことなど簡単なことだとさえ、周りに思わせるほどの、ひらめきを持ちあわせている。ロナウドとメッシは、無慈悲なほどに効率的なゴールマシンだが、同時に試合ごとにキラリと光る技も見せている。アザールには、ピッチという劇場で、同じものを見せる力がある。   2.チーム 現在のブルーズは、日々成長しており、長きに渡ってアザールがトップレベルでの挑戦をする場を提供してくれるだろう。彼は仲間とともにレベルアップして、チームも主に彼の攻撃センスを中心に建て上げられている。   1.態度 力を妨げる唯一のものは、選手としての態度だが、この点では、アザールは模範的だ。実際、彼の父はモウリーニョと話をし、彼はもっと傲慢で自己中心的になる必要があると伝えている。

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アレクシス・サンチェスについて、あなたが知らない5つのこと【海外記事】

サンチェスは、夏に4200万ポンドでアーセナルに加入した。最初の17試合で11得点を決めた、このウィンガーについて、あなたが知らないかもしれない5つのことが以下だ。 1.貧困 サッカーでの成功によって、貧困生活からリッチな生活ができるようなった選手たちは多くいる。サンチェスのケースは、その中でも厳しいものだった。チリの炭鉱地域で育ち、彼の母親は、家計を助けるために、彼の学校で掃除係として働いていた。   2.仕事 若い頃、サンチェスはサッカー一筋だった。しかし、家族が生きていくために、車の掃除などの仕事もやらされており、また、路上でのアクロバティックなパフォーマンスをしてお金を稼いでいた。当時、尽きないエネルギーで、「リス」というあだ名をつけられていた。、その後、若くしてサッカーの才能を発揮し始めると、次第に「El  Niño Maravilla」(ワンダーボーイ)と呼ばれるようになった。   3.グアルディオラ バルセロナとの契約の後、当時のペップ・グアルディオラ監督は、サンチェスについてこう言っている。 「アレクシスは、私の心を奪った。彼と一緒にいられるのは嬉しいよ。とても謙虚な男なんだ」   4.初のチリ人選手 サンチェスがアーセナルと契約した時、彼はアーセナル史上2番目に高額な選手だった。また、バルセロナの時と同様に、彼はこの北ロンドンのクラブで初めてのチリ人選手だった。   5.故郷への想い サッカーという仕事に対するサンチェスの飢えと強い決心は、家族を養いたいという想いだけでなく、極貧の故郷トコピジャの人たちを助けたいという想いからも来ている。5つのトコピジャのサッカー場を改良するために、彼は14万ポンドの寄付もしている。 参考

人生の話

お婆さんを背負った二人の僧侶

ある日、二人の僧侶が田舎町を歩いていた。収穫物の運搬のために、ある村へと向かう最中だった。 その道すがら、老女が川のほとりに座り込んでいるのが、僧侶の目に入った。橋が架かっていないので、川を渡ることができず、困っている様子だった。   一人目の僧侶が、親切に申し出た。 「よろしければ、川の向こう側まで私たちが運びますよ」   「ありがとう」 老女は、そう言って、申し出をありがたく受けた。   二人の僧侶はお互いの両手を組んで、老女を組んだ腕に乗せ、川を渡った。渡り終えると、二人は老女を下ろし、彼女はお礼を言って、そのまま道の向こうへ消えていった。   僧侶たちも旅路を続け、10キロほど歩いたところで、一人の僧侶が不満をこぼし始めた。 「ああ、この袈裟を見ろ。あの婆さんを運んだせいで、泥だらけだ。それにいきなり重いものを運んだから、背中も痛む。」 もう一人の僧侶は、微笑みを返して、黙って頷いた。   また10キロくらい進んだところで、同じ僧侶が、再びブツブツとこぼし始めた。 「背中がすごく痛い。あんな婆さんを運ばなきゃよかった。もう歩くのも辛いよ」 別の僧侶は、道端に横たわり、不満を並べる相方に言った。 「きみはいつもそうだね。きみと違って、僕がどうして文句や不満を言わないのかわかるかい?」   彼は言葉を続けた。 「きみが不平不満を止められないのは、今もきみの心が、おばあさんを背負い続けているからなんだ。僕は、川を渡った所で、とっくにお婆さんを下ろしているのに」   他人の言動に対して、僕たちは同じことをしがちだ。もしも、あなたが不満を並べる僧侶なら、いなくなったお婆さんを、ちゃんと背中から下ろして、生きた方がいい。過去のことは、学びの材料にするだけで、背中に背負いこまない。過去の嫌なことは、人の精神を支配しやすい。でも、それに引きずられて生きていると、今日という日は、いつまで経っても満開には咲き誇らない。