1988年のある朝、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルは、自分自身の死亡記事がフランスの新聞に出て、腰を抜かすほど驚いた。
生きているはずの自分が死んだことになって、新聞のお悔やみ欄に出ていたからだ。
実際に亡くなったのは、ノーベルの兄弟。
著名な人が高齢や病気に侵されたとき、万が一のときにすぐに記事が出せるように、新聞社は前もってその人の死亡記事を用意しておくことがある。ノーベルの兄弟が亡くなったことを知ったフランスの新聞記者は、それがノーベル本人だと早合点してしまい、間違えてノーベルの死亡記事を新聞に載せてしまったのだった。
掲載された自分自身の死亡記事を読んだとき、ノーベルは自分の発明が世の中にどう受け止められているのかを痛感する。科学者として、もともと「人類の役に立てば」と思って発明したダイナマイトだったのだが、新聞には、ノーベル自身は、「ダイナマイト王」、「死の商人」として描かれ、人殺しの兵器によって巨万の富を蓄えた者、として記されていた。
この描写に、ノーベルはショックを受ける。
彼が発明したものは、そんなことに用いられるためのものではない。しかし、ノーベルの意図せぬところで、ノーベルの発明を、人々は破壊の道具、人を殺す道具として使い始めていた。ノーベルは、その発明者として人々から称賛を受けるようになるが、それは決して彼の本意ではない。
自分の死亡記事を読んで唖然としたノーベル。
自分の発明をこれ以上間違った方向に使われることがないように、用意していた自分の遺書を、彼は全く違うものに書き換える決意をした。新たにしたためられたその遺書には、世界平和に偉大な貢献をしたものに栄誉ある賞を与えるために遺産を用いてほしい、と記されていた。
今日、このノーベルの遺言が形になったものが、日本でも有名なノーベル賞だ。
死は誰にでも例外なく訪れるものだが、日常生活の中で、多くの人は死を意識せずに生きている。どのように生きたいかは、多くの人たちによって語られるが、どのように死にたいかは、あまり多くの人たちに語られることはない。
生と死はコインの表と裏で、どのように死にたいかが分かれば、どのように生きたいかが、おのずとわかってくる。
ノーベルは、死の商人として、ただダイナマイトで巨額の富を得た者として死にたくはなかった。自分の意図を理解してもらい、自分の足跡に納得した気持ちで死にたいと思っていた。
そのために、彼は一度正式に書かれた遺書の内容を覆して、自分が今やるべきことを行動に移した。
世の中には、すぐに死ぬわけではないから切迫感がない、という人が大半かもしれない。でも、遅かれ早かれ、人は誰もが死に直面する。どんなに若くても、どんなに大金を持っていても、どんな地位にある人でも、必ず死に向かい合うときがやってくる。
避けられないその瞬間を迎えるとき、どういう人間として死んでいきたいか。その願いを実現するために、今するべきことは何か。
そのように考えることが、結局、自分はどのように生きたいかというテーマに繋がっていく。
僕は、大人になってから二度、本気で死を覚悟したことがある。
たまに起こる「あぶねー。死ぬかと思った(笑)」という危なさ程度では、人は変わらない。でも、本気で死を目の前にして、そこから何とか生還した人は、その後、その世界観の根底を変えられることがある。
僕はこの二度の死の危機を経て、自分の人生を終えるときに、自分は誰でいたいのか、何を与えた人でいたいのかがを、明確に意識するようになった。そして、そのように人生を終えるために、自分は「どこで誰と一緒にいて、何をした方がいいのか」ということを、以前よりも意識して考えるようになった。
「メメント・モリ」という言葉がある。「死を忘れないでいなさい」という意味のラテン語で、もともと死を見つめて生きることの大切さを喚起させるための言葉だったと言われている。
中学生で初めてこの言葉を聞いたときは、「今から死ぬこと考えてどうすんの」と思ったのだが、今となっては、この言葉が人に何を思い起こさせたいのか、よくわかる気がする。
ノーベルは、思いもかけずに自分の「死」に直面した。そして、それが「自分がどうやって生きるのか」を見つめ直すためのきっかけとなった。
ノーベルは亡くなったが、あの新聞記事の後には、平和活動にも積極的に関わり、今では多くの人に、「死の商人のノーベル」ではなく、「ノーベル賞のノーベル」として覚えられている。
僕たちは、どんなに若くても、いつか必ず死んでいく。
そのとき、自分がどういうあり方をしていたいのか、自分を見失うときにはいつでも、そのことを思い返したい。