連絡をくれた人と僕の人生の話

たとえほぼ全てのものを失っても、決して失われることのないものが一つある

1997年、一人の偉大な精神科医が人生の幕を閉じた。

その人の名前は、ビクトール・フランクル。

フランクルは、オーストリアのウィーン大学の精神医学科に勤務していた著名な精神科医。フランクルが亡くなったというニュースは、当時、欧米だけでなく、日本のニュースにも取り上げられていた。

世界的ベストセラーになった彼の著書『夜と霧』の中には、第二次世界大戦のときの彼の経験が記されている。

第二次世界大戦中の1942年、ユダヤ人であった彼は、のちに殺害される彼の妻や両親と共に、ナチスの収容所に入れられてしまう。

はじめは、他の囚人たちと同じ肉体労働をしていたフランクル。しかし、医学の学位を持っていた彼は、のちに収容所で優遇され、ナチスのために医療の仕事をさせられることになる。

その2年後、意に反してアウシュビッツに移されたフランクルは、残虐で恐ろしい光景を、そこで嫌というほど目にしていくことになる。

次々に死んでいく人々の群れ。

アウシュビッツに収容された人々が、ショックと苦しみで無気力になり、最後は何の希望も持てなくなっていく。

フランクルの目に映ったのは、そんな絶望に満ちた景色だった。

疲れとあきらめが襲い掛かり、目の前に横たわる自分の人生が悪夢にしか見えなくなってくる。人々が気が狂ったようになっていく。

当時の様子を、フランクルは、そのように書き残している。

しかし、多くの人々が狂いそうになる、そんな状況の中、深い感動を覚えさせられたある人々のことを、フランクルは同時に著書に書き記している。

心身の自由を奪われ、家族を奪われ、日常生活を奪われる。そんな極限の状態にありながらも、他の人々を笑顔と優しい言葉で励まし続け、自分の最後のパンのひとかけらを、同じように空腹に震える人々に分け与え続けた、そんな人々の姿が脳裏に焼きついて離れない。

確かに、数は少なかったかもしれない。しかし、そのような人々がアウシュビッツに実際にいた、ということは、私に一つのことを証明してくれているように思う。

それは、たとえ全てのものが奪い取られても、人間の最後の自由は、誰にも奪い取ることができない、ということだ。

強制収容所のような過酷な状況の下にあっても、今この瞬間の自分の態度を自分で決められる、という最後の自由は、いついかなるときにも、取り去られることはない。


– Frankl, Viktor., “Man’s Search for Meaning”

生きている間に、僕たちは多くのものを失っていく。僕たちが持っているものは、いつか必ずなくなっていく。

物理的な所有物だけではない。いま享受している健康も体力も脳の働きも、これから先、確実に失われていく。

でも、たとえそれらの全てが取り上げられても、人には一つだけ取り上げられないものがある。そう、フランクルは言った。

それが、人間の最後の自由だ。

「どんな状況の下でも今の自分の態度を自分が決めるという自由、それだけは誰にも奪うことができない」

そうフランクルは語った。

他人に何をされても、何を言われても、どんな状況で育っても、僕たちには、今現在の自分のあり方を決められる自由がある。

隣人に、友人に、家族に、見知らぬ人に、どんなに不当な痛みや悲しみを与えられても、どんな卑劣で冷淡な扱いを受けても、裏切られても、恨みを抱かず許したり、ただ前を向いて静かに自分の道を歩いたりする自由を、僕たちは確かに持っている。

人間とは、一体、何か。わたしたちは、その歴史において、その問いを繰り返してきた。

わたしであれば、こう答えるであろう。人間とは、自分があるべき姿を絶えず決定していく存在である。

– Frankl, Viktor., “Man’s Search for Meaning”

人間とは、フランクルの言う通り、そもそもが自分があるべき姿を自分で決めていく存在なのかもしれない。

確かに、人間は残酷なアウシュビッツのガス室を発明した存在かもしれない。ときには卑劣で、残虐で、冷淡な存在なのかもしれない。

でも、それと同時に、人間とは、自分と同じ人間によって発明された悲惨な部屋へと、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら、他人を励ましながら、尊厳を失わずに顔を上げて入っていくことができる存在でもあった。

自分自身が、たとえ極限の状態にあっても、他人を励まし、空腹に震える人に、自分の最後のパンのひとかけらを分け与えることのできる存在でもあった。

僕たちは、一方では、悪意をもって、妬みの心をもって、その心の内に自らのアウシュビッツを作ることができる。人を卑劣な方法で不当に苦しめ、傷つける場所を、自分の心の中に作ることもできる。

でも、その一方で、僕たちは、自分が誰であるのかを問いかけ、いかなる「いのち」を生きていくのかを問いかけ、歪んだ思いにコントロールされない選択を下すこともできる。

これから何が奪われようと、これから何が取り去られようと、誰に何をされようと、僕たちには、いま現在の自分の態度を自分で決める自由を、確かに持っている。

自分の人生の主人公は自分だ。何をするのかを決定するのは自分だ。フランクルの考えによると、決して周りの環境や他人ではない。

人の弱さは容易に心の中に残酷なアウシュビッツを作っていく。誰かに卑劣な行いをされることもあるかもしれない。大きな苦しみが人生を襲うこともあるかもしれない。

でも、たとえそんな状況に放り込まれたとしても、「状況にコントロールされずに自分の態度を自分で決める自由を、僕たち一人一人は確かに持っている」ということを、僕はいつも心に覚えておきたい。

他人の冷酷さや現実の厳しさに、自分自身がコントロールされないように。

ABOUT ME
Yasu
Good Friends Japan CEO. We aspire to offer opportunities of international education especially to unprivileged young adults. ヨーロッパと台湾で仕事をする北海道育ち。大学をアメリカ、大学院をカナダで修了。リベラルアーツ教育、宗教教育修士。
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