
「一番苦しいときにどんな言葉をもらったかで、その後の人生が決まる」
-エム ナマエ
引越しのためにパッキングをしていたら、2001年に親友の一人がくれた手紙が出てきた。
その数年前、僕は、同じ年の同じ日に生まれた最初の彼女を、二年間の闘病の末に白血病で失って、別れるときに二人の間に起こった問題に対する罪悪感、自分だけが一人で新しい毎日を与えられるということへの混乱の中で、他人に対して心を閉ざしてしまい、毎日、一人でふさぎ込んでいた。
19歳の僕は、起こったことに対処する術も何一つ知らず、進路や人生そのものにも行き詰まって、随分と他人からの心無い皮肉や嫌味を聞く結果になってしまった。
でも、僕のことを幼稚園、小学校から知っている親友たちは、錯乱と不安、痛みと苦しみの中で、東京に向かう僕に
「おまえのことは心配してねーよ。桑だったら大丈夫だからな。何でって言われても説明が難しいけど、6歳から親友やってる俺が言うんだから間違いないと思うぞ」
「桑のことは俺がよく知ってる。おまえのことは、うちの母ちゃんでさえ、小学校の時から一目置いてるもんな」
「おまえの根性と人間性があれば、どこでだって通用する。俺たちがついてるんだから、それ忘れんな」
などと、いつだって僕に信頼を置いてくれ、折に触れて、その気持ちを伝えてくれた。
そして、彼らのその信頼の気持ちは、ボロボロになってしまっていた僕の心に、「もう少しだけ生きてみよう」と思わせる力をくれた。
上の手紙は、東京を経由し、アメリカで新しい生活をする決意をした僕が、北海道から東京に行く前夜に、そんな親友の一人に手渡されたもの。
「今読むなよ。おまえ、絶対泣くからな(笑)。飛行機の中で読め」と言われて、飛行機の中で読んだ手紙。
彼の予想通り、読み終わった後に号泣した。それまでの数年間の苦しみや葛藤、彼らに嘘をついてまで自殺をしようとした時のことを思い出して、飛行機の中で涙がボロボロとこぼれた。
そして、絶対に絶対に、どんなことがあっても絶対に、あいつらの信頼を裏切る生き方だけはしない、と心に誓った。
苦しくてどうしようもないとき、あれから何度、彼らのことを思い出したかわからない。
「あいつらは、俺の事を信頼してくれてる」
それを思ったら、苦しくて倒れそうなときだって、真夜中に涙が止まらなかったときだって、どんなときだって乗り切ることができる力が沸いてきた。
「俺は、これからどんな壁でもぶち破って、あいつらの信頼に応えるんだ」
そんなことを考えるとき、僕には信じられないくらい大きな力が沸いてきた。
「信頼」
これほど大きな力を、僕は、いまだに知らない。
僕は教会という大きな組織での自分の立場に加え、カナダの個人ブログが広く読まれていたこともあり、今までに多くの人の葛藤や苦しみに身近で関わって生きてきた。体を切り刻む事を止められない人、自殺したいと願う人、引きこもっている人、気が狂いそうな気持ちと葛藤している人などと、数多くの関わりを持って生きてきた。
その中で、いつも感じるのは、行き詰っている人や引きこもっている人を、その人の言葉にできない知恵や経験を、そして、その向こうにある可能性を、周りの人間はもっと信頼してほしい、ということ。
その人が形にできていないだけものを、言葉にできていないだけのものを、もう少しだけ見る努力をしてほしい、ということ。
目の前の人が、自分の考えや好みに合わせて動かないからといって、自分勝手なものさしで裁くんじゃない。無自覚に圧力を掛けて、自分の思い通りにコントロールしようとするのでもない。
僕たちには、決して、目の前の人間の苦しみなんてわかりはしない。僕たちには、決して、目の前の人間が通ってきた葛藤を理解することなんてできはしない。目の前の人間は、無神経な僕たちが安易に想像する以上に、日々、何度も深い葛藤を経験してきている存在だ。わかったような面で、他人の人生を語る権利など、誰にもありはしない。
そんなことにも気が付かないような無知で無神経な僕たちに、よくわからないものを裁いたり、コントロールしようとしたりする資格なんて、そもそもありはしない。
人を信頼することができないんだったら、人の力を尊重することができないんだったら、僕たちは、安易に人の傷や苦しみに触れるべきじゃない。行き詰まりを感じる人の人生に、傲慢な思いを秘めながら、安易に入り込もうとするべきじゃない。
人は自分の操り人形でもなければ、自分の八つ当たり人形でもない。人は決して自分勝手な思いを投影させる対象なんかじゃない。
苦しみ悩む人を前にして大切なのは、僕たちの好みや考え方じゃない。そんな傲慢で自己中心的な気持ちで人の傷や葛藤に近づくことじゃない。行き詰っている人、引き篭もっている目の前の人の内側を信頼することだ。
大切なことは、他にもいくらでもあるだろう。でも一番大切なのは、その人を知る人間が、そいつのことを信頼して支えることだ。
うわべだけの言葉じゃない。義務感から発する薄っぺらい言葉だけの”信頼”じゃない。その人の喜び、苦しみ、本当の心、それを知る人間が、自分には見えないその人の知恵や奥底の強さを、本気で信じて支えることだ。その信頼に触れた人間は、どんな力よりも大きな支えを胸に、その先の人生を生きていくことができる。
与えられた信頼の力をどう使うか。それは信頼を受けた本人の心にかかっている。与えられたものをどうするか。それを無駄にするのかしないのか。周りの人間には、それはどうすることもできない。それだけは、本人の意思にかかってる。
けれども、そいつに力の種を植えるのは、いつだって周りの人間だ。
周りに死にたくなるほど苦しんでいる人がいたら、どうか、目の前の人を信頼を通して、力の種を植えてほしい、と思う。心の底から、そう思う。
目に見えないその信頼の力は、人の人生を大きく変えることができる。行き詰まりにしか見えない道を、自分の足で前に進む力に変えることができる。
まだ20歳そこそこだった僕の親友は、きっと直感的に、きっと意識することもないままに、そのことがわかっていた。そして、心からの言葉を与えて、僕に力の種を植え付けてくれた。
無意識に発した彼らのその言葉は、それからの僕の人生を大きく変えてくれた。おそらく、彼らにさえも想像ができないやり方で。
彼らがいなければ、今の僕はない。生きていたかどうかもわからない。
最も信頼に値しないそのときに、最も愛されるに値しないそのときに、彼らは誰よりも僕を信頼して、誰よりも深い絆で接してくれた。
そのことを、僕は一生、忘れない。