「普通の家庭の子供を差し置いて、犯罪者の子供を特別扱いか。そんなことを続けるなら、こちらにも考えがある。覚悟しなさい」
先日、そんな趣旨の長いメールが来た。
僕が経営している会社Good Friends Japanでは、社会的に困難な環境に突っ込まれた人の留学を無料でサポートしている。親が刑務所にいる人も、特別サポートの対象だ。
「犯罪者は許すべきではない。犯罪者予備軍の子供を特別扱いするなど、自分は理解できない」
受け取ったメールには、そのような内容が、厳しい言葉遣いで綴られていた。
僕はカナダ時代から脅迫や嫌がらせには慣れている。世の中にどれだけ歪んだ考えをする人間がいるかも、数々の実体験から十分に理解しているつもりだ。
こういう人間が新たに現れても、特段、僕は驚きはしない。世の中はそういうものだ。
あなたがメールを送った本人であれば、僕があなたに言いたいことは四つある。
第一に、「あなたが犯罪の被害者や家族であれば、直接の加害者にどんな感情を抱こうと自由であり、”許さないという感情だけ”は、全面的に肯定する」ということ。「許すべきではない」というのも極めて自然な感情なので、賛同、共感するかどうかは別にして、僕も全面的に理解する。おそらく、同じ立場であれば、僕自身も相手を許すことができるか、心もとない。
第二に、「あなたが犯罪の被害者でも、その家族でもない無関係な他人で、勝手に歪んだ正義感を振りかざしているのであれば、あなたは犯罪者一般に対し、許す許さないの判断をする立場にいない」ということ。相手は全く無関係な他人であるあなたに許される必要など微塵もない。あなたにできるのは、好き嫌い、気にいる気に入らない、の好悪の判断だけだ。
第三に、「あなたが誰であろうと、親が犯罪を犯したという一点をもって、その子供たちに不当な言葉を吐くことはできない」ということ。無関係な他人はもちろんのこと、犯罪の被害者本人であろうと、そんな権利を有していない。なぜなら、子供たちは独立した別人格をもつ存在であり、無実だからだ。親が起こした事象を理由に、その子供たちを差別することはできない。
第四に、「子供たちはむしろ、起きてしまったことに苦められている側の人間」だということ。無実の人間が、親が起こした事象で苦しんでいる。僕には、特別扱いするに十分な理由だ。
Good Friends Japanでは、全ての最終決定は僕が下す。
その僕が決めた。親が刑務所に入っている人は無料で留学のサポートをする。
支離滅裂の脅迫でそれを変えられると思っているなら、あなたは大きな間違いを犯していることになる。
10年近く前から、こうすることは決めていた。単なる思いつきでやってるわけじゃない。以下は2009年の秋に他のブログに書いた内容の一部を書き換えたもの。当時から既にこうすることを考えていた。
2008年の夏、僕は2ヶ月間、当時住んでいたカナダを離れ、日本の教会で研修をしていた。
今も忘れられない大勢の素晴らしい人たちに出会い、その中に、初めて会ったときから強烈な印象を残した中学生の姉妹がいた。
見た目は今どきの中学生という感じだけど、驚くほど繊細で鋭い姉妹。日本、アメリカ、カナダで多くの10代と関わってきたけど、その中の誰とも印象が違った。精神的な成熟さは、群を抜いていた。教会のあり方への受け答え、小学生の子供たちへの気遣い、会合の準備での立ち振る舞い。どれをとっても、とても中学生とは思えなかった。
会う前から「お母さんのレストランを手伝っている、大人びた中学生の姉妹がいる」というのは、複数の人から聞いていた。でも、実際に身近で接していると、二人が与えた印象は僕の想像を超えていた。
教会の行事を一緒にしたり、教会のお泊まり会で明け方まで一緒に盛り上がったり、二人がパンを焼いて持ってきてくれたりして打ち解けていくうちに、この中学生の姉妹は、僕の中で本当に大きな存在になっていった。
中学生といっても大人の役割をしてくれるので、二人が一緒にいるだけで、僕の教会での仕事は格段に楽だった。だんだん僕を二人でいじってくるようになったので、「おまえらはアホなのか?笑」というときは何度もあったけど、僕にとっても、小学生の子供たちにとっても、いてくれるだけで安心する存在。いるのといないのとでは、場の雰囲気が大違いだった。
どこでも会ったことのないような、不思議な印象を残した姉妹。
一般的な10代とは比較にならないほど大人びて、あまりに敏感で鋭い彼女たちを見て、当初から「平均的な子供とは違う環境で生きてきたんだろうな」と想像はしていた。
ただ、それでも、「僕が研修に行く前年から、お父さんが不法侵入と性的暴行の罪で逮捕されて刑務所に入っている」という彼女たちの背景は予想していなかった。
被害者は、複数の女子高校生。事件の内容を考えると、中学生の姉妹、特にお姉ちゃんの精神が耐えられるような話ではない。お父さんが以前に全く同じ犯罪を犯していると聞けば、なおさらのことだ。
地元のメディアにも取り上げられ、大勢の耳にも触れたこの事件。残された家族は、野次馬たちの好奇の目にさらされていく。評論家ヅラをした無神経で無思慮な者たちに、あることないことを言われて、精神的に追い詰められていく。
そんな中を、この姉妹は、強気な態度で必死に生き抜いていた。
お姉ちゃんの方が、学校で父親のことで悪口を言われたときのことを、僕を含めた大人たち数人の前で話したことがある。
子供はときに残酷だ。心無い言葉を平気な顔で投げつける。
聞いてるだけで言いようのない怒りがこみ上げてきたけど、言われた本人は冷静だった。
「でも、しょうがないじゃん。事実だもん」
平静な表情で、そう言っていた。
辛いことがあったとき、人はどうしても自分のことばかりを考えてしまう。でも、この姉妹は違った。教会の子供たちのことを誰よりも考えてくれた。
突然あんな状況で生きることを余儀なくされた15歳と13歳の中学生。それでも、僕の眼に映ったのは、いつもいつも大変な状況の子供たちをサポートしようと頑張る、世界一のお姉ちゃんたちだった。
「俺もこんな人間になりたいもんだな…」
他人に影響を受けないたちの自分でも、この二人にはそう思わされた。
時が過ぎ、僕の研修が終わってカナダに戻るとき、この姉妹とそのお母さん、そして、彼女たちが昔からお世話になっている人たちで、僕のお別れ会を開いてくれた。お互いに信頼している親しい人たちだけを集めた、笑顔が絶えない楽しい会だった。
そして、もう夜も遅くなり、そろそろ帰ろうかという時間になったときに、姉妹のお父さんの話が話題に上がった。二人のお母さんも、当時の様子を周りの人たちと一緒に分かち合ってくれた。
そんな中、色々と後片付けをしてくれていた姉妹のお姉ちゃんにも話が向けられ、彼女も、学校でのこと、逮捕の当時、家に一人でいるときに無神経なマスコミがアパートに押しかけたことなどを、その場で話し出した。
周りの人たちや姉妹のお母さんに、お父さんの逮捕当時の話は聞いてはいた。でも、当時の具体的な様子を、この子の口から聞くのは初めてだった。
そして、話を続けるうちに、彼女が初めて僕に涙を見せた。
お父さんが逮捕された当時、自分たちがどういう状況だったのか。近所で何が起きたのか。震える声で言葉を重ねながら、彼女の頬が涙で濡れていった。
「辛かったんだねえ…」
その場にいた年配の方が、そう声をかけた。
「そりゃ辛いよ!辛かったよ!!」
この15歳の子は、目から次々と涙を溢れさせながら、声を荒げて答えた。
彼女は、ずっとずっと、この感情を内に秘めて生きていた。お泊り会で明け方までアホなことをしていたときも、一緒に彼女の妹をいじっていたときも、この感情を心の奥底に抱いたまま、強気な態度と笑顔で、それを覆って生きていた。
ずっと抑え込んでいたその感情が、あの夜、一気にあふれ出してきた。
僕は10代後半から20代前半の頃、襲い掛かる「起こってしまったことにどんな意味づけをするか」、「人の死にどう向き合うか」という人生の課題に対して、自分の精神をコントロールする術を何も持たず、ときとして非常に恥ずかしい言動をしていた。極度の混乱と苦痛の中にいた。
異変を感じた友人が助けてくれていなければ、僕はおそらく、今、生きていない。
高校卒業後の自分の進路を考えることもできず、僕は心身ともにボロボロの状態で逃げるように東京に出た。東京の大学をステップにして、アメリカに行くために。
この頃は、ほぼ苦しくて辛かった思い出しかない。生き返ることのない人のこと、起きてしまった過去ばかり考えてしまい、何をどうすればいいのかわからなくなっていた。
そして、毎日、政治思想、哲学、宗教学の本を貪るように読む日々を経て、やっとのことで東京に行っても、周りの学生の知性、精神性の全てが幼稚に見えてしまい、僕は他人と関わりを持つのを時間の無駄と考えるようになった。
やがて、大学図書館だけが僕の居場所になり、サッカーをするとき以外、人付き合いもほとんどなかった。
そんな傲慢で変わり者の僕だったけど、大学付属の日曜学校の手伝いだけは、一生懸命にしていた。そして東京に渡った年のクリスマス、その日曜学校で、アシスタントにつかせてもらっていた深澤先生から、一冊の本と一緒にクリスマスカードをもらった。
「あなたに出会えたことを神さまに感謝しています。あなたの内に秘めた強さに感動しています。わたしのささやかなプレゼントをお受け取り下さい」
カードには、そう書いてあった。
その夜遅く、アパートに帰ってそのカードを開いたとき、自然と涙が出た。何かが荒んだ僕の心に触れた。
中に書かれていたのは、他人には何でもない言葉かもしれない。でも、自分にとっては、信用していた大人がくれた、初めて尊敬した先生がくれた、愛に溢れた言葉だった。
振り返れば、ずっと苦しいことばかりだった。
「リンパが腫れてて、今日から入院する。何かちょっと怖い」と僕に電話をしてきて、彼女が入院を告げた日から混乱が始まり、彼女の親友に彼女が白血病であることを泣きながら知らされた夜から拷問のような日々が始まり、高校生という幼い子供だった僕は、何をしていいのかわからなくなってしまっていた。
そして、この状況に周りの無神経な発言の数々も加わっていき、僕は自分をコントロールすることが段々とできなくなっていった。
あの夜、付き合い始めてから彼女が死ぬまで、そして、彼女の葬儀から東京に行くまでの過程が、次々と脳裏に襲いかかった。
悔しさなのか、後悔の念なのか、深澤先生への感謝なのか。今もよくわからない。とにかく、床や布団を殴りながら、僕は明け方まで声をあげて泣き続けた。
「辛い」、「苦しい」を一切誰にも言わず、周りの人が心配して僕の生活を変えようとするほど、気持ちが張りつめていた生活。
あの夜、ずっと張りつめていたその細い糸が、初めて音を立てて切れた。
どんなに言葉を抑え込んでいても、鉄の仮面で本当の気持ちを覆っていても、あのクリスマスの夜、泣きながらそこに座り込んでいたのは、ただ辛くて、ただ苦しくて、疲れ切ってボロボロの自分だった。
15歳のあの子が初めて涙を見せた夜、僕はあのときの自分を見た気がした。
「桑ちゃんは、わたしと似てる」
初めて会った日にそう言っていたこの子の痛みに、おそらく昔の僕の何倍も辛くて、何倍も悲しくて、何倍も疲れていただろうその子の涙に、言葉では言い表せないくらい、激しく心を動かされた。
そして、何もしていないこの子を苦しめる全てのものに、狂ったような憤りを感じた。
「この子の痛みがやわらぐのであれば、どんなことでもする」
あのとき、そう思った。
今でも、その想いは変わらない。
あなたは、激しく心が動かされた経験があるだろうか?
相手や状況が自分の思い通りに動かなくて、精神的未熟さからいらだったり、怒ったりして、心が動かされるのではない。
他人の痛みや苦しみを見て、その心が激しく動かされたことがあるだろうか?
中東や欧米で昔からよく知られた「Parable of the Good Samaritan」という話がある。一人のユダヤ人によって語られたと言われる、次のような話だ。
道の途中でユダヤ人と思われる男が強盗に襲われ、瀕死の状態で倒れていた。そこに、お偉いさんのユダヤの祭司、ユダヤの立法を遵守するレビ人(下級の祭司)の二人が通りかかる。けれども、苦しむユダヤ人のそばを、二人は知らぬ顔をして通り過ぎていく。
ユダヤのエルサレム神殿に使えるこの二人。ユダヤ人の中のユダヤ人ともみなされた祭司階級のエリートたちは、ともに同胞であるユダヤ人を見捨てて、通り過ぎていった。
これに対し、当時ユダヤと激しい対立関係にあったサマリアの人が通りかかると、このサマリア人は、憎しみの対象であるはずのユダヤ人の傷に包帯を巻いて、優しく介抱した。
ユダヤ人とは触れ合わないはずの、ユダヤ人から差別され軽蔑されていたはずの、ユダヤ人と敵対していたはずの、そんなサマリア人が、それにも関わらず、倒れたユダヤ人を助ける。
「こうするべきではない」という幾つもの理由を超えて、その手を伸ばす。
なぜ?
その目で傷ついた人を見て、激しくその心が動かされた。
ギリシャ語の原典には、それしか理由は書かれていない。
このたとえを語ったユダヤ人は、聞いている者たちにこう言った。
「行って、同じようにしなさい」
僕は、あの子の涙を見た夜に決めた。
親の犯罪で苦しむ人が現れたとき、その人生が好転するきっかけを与えられる仕事をする。
そう決めて、カナダの職を離れた。
あなたは、今まで激しく心が動かされた経験があるだろうか?
身近な人が不当に精神的拷問にかけられているとき、その心が動かされたことはあるだろうか?
僕にとっては、それが、この姉妹に出会ったあの夏の終わりだった。
たとえ親が情状酌量の余地のない犯罪を犯したとしても、子供たちには何の責任もない。子供たちは、むしろ親の犯罪によって苦しめられている側の人間だ。
それでも、無料サポートの対象が「犯罪者の子供」となると、残念ながら万人が賛同してくれるわけじゃない。「気に入らない」という感情を元に、僕に嫌味や皮肉をぶつけたり、攻撃したりしてくる人は、今後も出てくるだろう。
それでも、僕の耳に届くのは、そんな人間の声じゃない。
「行って、同じようにしなさい」
頭に響くのは、あのユダヤ人の言葉だ。
あなたの脅迫の言葉じゃない。